青山祐介

北ホテルの青山祐介のレビュー・感想・評価

北ホテル(1938年製作の映画)
4.0
マルセル・カルネ「北ホテル(HOTEL DU NORD)」1938年 フランス

詩的レアリスム(Réalisme Poétique) ― ジャン・グレミヨン、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャック・フェデール、ルネ・クレール、マルセル・カルネなどの映画作家が、フランス映画の黄金時代といえる映画美学を形ずくった。「巴里祭(1933)」、「望郷(1937)」、「北ホテル(1938)」「天井桟敷の人々(1945)」などを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。映画俳優ならばジャン・ギャバンと誰しも答えるだろう。また詩人ジャック・プレヴェールの名も忘れることができない。私は詩的レアリスムの洗礼を受けた最後の世代に属する。不安な時代であり、繊細で感傷的、詩的で叙情的、厭世的でロマンティック、パリの女と男、その庶民の猥褻な日常を描く、ヌーヴェルヴァーグ以前のフランス映画の特徴である情念と詩と台詞と心がそこにはある。舞台の殆どはパリである。「北ホテル」も、黒い郊外といわれたパリの北の街が舞台である。監督はパリ生まれのマルセル・カルネ、原作はウジェーヌ・ダビ、脚本・台詞は「肉体の悪魔」「禁じられた遊び」のジャン・オーランシュ、音楽は「舞踏会の手帖(1937)」、「霧の波止場(1938)」、「旅路の果て(1939)」のモーリス・ジョーベール、カルネの第4作目の長編映画で、カルネは「詩的レアリスム」の代表的な映画作家と呼ばれるようになった。
 パリにはさまざまな呼び名と貌がある - 古き良きパリ、モードのパリ、ニンファ・モデルナのパリ、薄汚いパリ、病んだ都市パリ、襤褸布と下水のパリ、北郊外の黒いパリ - パリでこそ「壁や河岸が、停留所が、コレクションや瓦礫が、格子や四つ角の小さな広場が、路地や新聞売り場が、比類のないことばを教えて」くれる。パリの街ほど、何か代名詞をつけて呼びたくなるような都市は他にはない。それがパリなのである。
パリに人の名をつけて呼んだらどうであろうか? ボードレールのパリ、ヴェルレーヌのパリ、プルーストのパリ、クルルのパリ、ケルテスのパリ、アジェのパリ、ブラッサイのパリ、ナジャのパリ、カルネのパリ、パリはメリーゴーランドのように、蜃気楼のようにめぐるのだ。それではパリにもっとも相応しい俳優は誰か? ジャン・ギャバンか、いや、ルイ・ジューヴェしか私には思いつかない。ルイ・ジューヴェのパリこそが、私にとって、ボードレールやバルザックのパリと同じようにパリの代名詞となる。
「北ホテル」には二組のカップルがでてくる。アナベラとジャン=ピエール・オーモン、ルイ・ジューヴェとアルレッティの二組のカップルである。二組のカップルの運命はサン=マルタン運河の橋をへだてて対照的に結末をむかえる。新しい世界に向かう美男美女のカップルは後にトリュフォーが批判するように「詩的リアリスム」の定型として描写され、ルイ・ジューヴェとアルレッティは、私の心の中にあるパリの回想として残ることになる。
パリは変わってしまった。歴史と回想は区別しなけれならないという。もはや「詩的リアリスム」は古くなり、プレヴェールの「ポエティック・ヒューマニズム」という言葉も忘れられてしまった。映画は撮影所から街角に移った。そして何が変わったのか? 私の思いもパリも変わってしまったのだ。私たちはただ「すでに起きたことという書物のページを」薄暗い書斎で開くことがゆるされるだけなのである。
青山祐介

青山祐介