西川美和は新たな倫理を作れるか⑥(ラスト!)
倫理という学問は面白い学問だと思う。倫理はそもそも「私たちの中で正しいとは何か」を追及していく学問だと思っている。だから答えはない。あるのは「考える訓練」だ。ただそれでは成績が出ないので残念なことにただの覚えるゲームに成り下がってしまう。後輩の倫理教師が嘆きが聞こえてくる(ペーパーはそこそこ取る子も考えを主張するものになるといきなり稚拙になると嘆く)。
翻って西川美和。西川は巧妙に正しいを回避している。彼女の作品はどれも「正しい/正しくない」をシーソーのように行き来する映画だ。「蛇イチゴ」では宮迫は香典泥棒だけど家族の再生を行う。「ディアドクター」の釣瓶は医者という崇高な目的の裏で金をもらうことも是だと考えだます。「永い言い訳」の本木は被害者であるけど、その一方で不倫をしていた。「夢売るふたり」の阿部サダヲは結婚詐欺を行うがその一方で女性を助けるように動く。「すばらしき世界」の役所は確かに刑務所帰りで同情に値するがそれでも粗暴なところは抑え切れてない。
そう、西川作品は(たぶんわざとだろう)巧妙に「正しい/正しくない」を「言わせない」ようにした。それは本作でも同じだ。オダギリジョーは香川が真木よう子に思いを抱いているのを知りながら真木を抱いてしまった。その一方で香川が刑務所に入ったときは兄のために尽力する。一方香川はどうか。一定して「良い人」を演じているがそれでも真木に嫉妬を焦がす。
この映画はまさに「正しい/正しくない」をぐらぐらさせ僕らの考えを砕いていく。そしてそれを見ながら僕らは「正しい/正しくない」を勝手に考えてしまう(それこそがミスリードなのにね)。そしてやっと「正しい」がわかったと思ったら西川はまた、大きくひっくり返す(最後の顛末は必見である)。そこで僕らはあっと言う。ああこっちが正しかったんだって。でもその後のラストシーンを見てまた僕らは揺らいでしまう。香川照之の笑顔は何を意味するのか。
大事なのは倫理と同じで「懸命に考えること」じゃないかと僕は西川作品を見てそう思っている。僕らの世界に「正しいものなんて何もない」。でもそれで全てを解決したつもりになっているとしたらとんだ青二才だ。そこからもう一回「正しい」を追い求めること。それこそが西川美和の映画であり「ゆれる」なんだ。ゆれているのは吊り橋か?香川照之か?オダギリジョーか?違う。ゆれているのはこの映画を見ている「僕」であり「あなた」だ。
※今回で西川美和ウィークは終わり。というか全作品レビュー終了である。今は文筆業ばかりで映画を撮ることはないそうだ。残念。こんなに思弁的な監督なのに。
※以前見たときに「わからなかった」西川作品だけど、今回見ても「わからない」。でもそのまま「わからない」から考える時間は増えた。西川作品は下手すると映画を見ているより考えている時間のが長いのではないかと錯覚させられる。決してファストな感覚で見る映画ではない(退屈な映画はそれだけ考える時間が増えるということを意味する。それは決して悪いものではない)。
※誰がこの中で一番悪いのだろう。香川か、オダギリか。それとも大穴で蟹江敬三か。誰が正しいかでこの映画はプリズムのように様相が変わってくるが、誰が「悪いか」ではさらに様相が変わる。そもそも「悪い」とは何か。そんなことまで考えてしまう。