レインウォッチャー

デッドマン・ウォーキングのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

デッドマン・ウォーキング(1995年製作の映画)
4.5
映画について何か書くとき、いくつか意識的になるべく避けているワードや表現があって、「演技力」とか「誰々の演技が上手/下手」はその一部だ。
これはわたしに「演技」の構造を分解して語れるほどの知識体系や語彙がない、というのが何より大きいのと、「演技」と演出やキャラや雰囲気の境目が曖昧に思えるから。(※1)

しかしそれでも稀に「演技力」に打ちのめされたと書く他ない作品も存在する。今作がまさにそうだ。

迫る死刑執行を待つ囚人マシューと、彼の最期のときまで精神的に寄り添う役目を請け負うシスターのヘレン。
この、多くの人々にとって俄かには想像・共感し難いであろう人物(冤罪とかでもないし)の心境を、ショーン・ペンとスーザン・サランドンの二人は完璧に表現し尽くしていて、彼らの迷いや痛みが指先で触れられるほどの輪郭をもって目の前に立ち現れる。

映画はどちらかといえば淡々と進んでいく印象だ。マシューの死刑を差し止める特赦が得られるか?といった多少の山谷も用意されてはいるけれど、事件の真相がどうとかは二の次だし、基本的には対話の様子がじっくりと映される。マシューとヘレン、ヘレンと被害者遺族、マシューと彼の家族…など。
それ故に、二人の心境の曲線的な変化が際立って、それこそが映画全体を動かしこちらの感情を巻き込む大きなうねりとなる。

大袈裟に叫んだり泣き喚いたりすることはなく、最後の最後まで言葉にされなかったもの、マシューが自分の殻に隠したものやヘレンが飲み込んだもの、も沢山あることがわかる。しかしそれでも時は過ぎて、収まりきらなかった言葉たちは嘆息や涙となって零れ出る。
まさに、観るわたしたちもまた彼らと「歩む」(walking)ような作品なのだと思う。だから、終盤のマシューとヘレンのタイムリミットぎりぎりの会話、彼らの額や鼻に差した赤み、震える瞳は、共に過ごしたに近い体験として何年経っても忘れることができず、涙が引き摺り出される。

題材としてはやはり死刑制度の是非を考えさせるものになっていて、映画の作り手は廃止の立場に寄っているとは思うのだけれど、被害者側や刑務官たちと言った周囲の心情にも向かい合っており、できる限り公平であろうという姿勢がうかがえる。

そのセンシティブな均衡を支配しているのは、常に二人の演技力の賜物だ。
これでどちらかの振る舞いがあと少しでも過剰だったりすれば、たちまちこの橋渡された細いロープを目隠しで一歩一歩進むようなテンションは崩れて、偏ってるなとか嘘っぽいなという印象を与えてしまうだろう。
このあたりの比重というか信頼は、自身が俳優でもあるティム・ロビンスが監督を務めていることも寄与しているのだろうか。

ここには二人だけの教会ともいえる神聖な空間が確かにある、と信じられる。
映画自体が打ち出そうとしている法や信仰についての問いを半ば越えて、ただそこには「これから止めようもなく失われる命がある」という冷徹で純然たる結果のみを浮き立たせている。このことが、わたしたちに開く思考の地平は広い。

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※1:この表情が切なかったとか、この動きがキレキレだったとか、そういう書き方はする。
また念のため誤解なきよう書いておくと、誰もが書くべきでないなんて意図は全くない。あくまでわたしが書くには自分に対して納得感が欠けてしまうという趣旨です。