垂直落下式サミング

デッドマン・ウォーキングの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

デッドマン・ウォーキング(1995年製作の映画)
4.6
ティム・ロビンス監督の法廷劇。
死刑制度の賛否を押し付けるのではなく、その是非を中立の視点で描いているように見えて、実のところ双方の思想をやんわりと否定するかのようなクールな内容の作品となっている。本作は、あくまで中立を守り、明確な答えを出していないのではなく、賛成も反対もどちらも間違っているという恐るべき回答を示しているように思う。
誰にでも共感できるような人間ドラマであるが、それぞれの主張の合間にちょっとした客観視点が挟み込まれることで、特定の人物への感情移入が拒まれる見事な作劇。確かに死刑囚の男マシューが酷い殺人者ではあることは断定的に示されるが、被害者遺族をどこか俯瞰した視点で描き、死刑反対派の主張にも理を感じさせつつも、人を殺めたものに同情的になり過ぎないよう配慮されていた。
賛成派の主張は、単純に被害者家族の憎しみや無念を解消させるべきだというもの。被害者遺族の感情が云々というよく聞くアレだ。
反対派の主張は、日本人には馴染みの薄いもので、人の生き死には神が定め、それに従うべきだという西洋カトリックの思想。
この二者の主張の対立をしっかりと強調した構成のためか、非常に象徴的な作品となっている。
結局、最後まで死刑判決は覆らず、マシューは死刑となる。手足を拘束された状態で薬物を投与されたマシューが静か死んでいく様を、賛成派、反対派の双方が目の前で見物し幕引きとなる。
この構図はイエスの磔刑を意識している。神の御子は人によって断罪されることで復活を果たし、今現在までその教えが語り継がれることとなった。
そもそもクリスチャンが首から下げている十字架とは、罪人を処刑するためのものであり、つまりは、死刑・死罪という厳罰がこの世になければ、キリスト教という宗教は根本から違うものになっていたかもしれないということで、即ち、このストーリーは制度などという小さな問題などではなく、人が生きる上で信条とする信仰の在り方を描いてみせているのである。
一連の事件を通して、賛成派は主張を押し通せたにも関わらず、「自分は人が死ぬことを望んだ」「神でないものが人を罰した」という罪の意識を一生涯背負うこととなる。また、反対派は最悪のかたちで、カトリックの思想が正義とするものの残酷なまでのただしさを認識してしまうのである。
死刑囚マシューの「誰がやるにしても人を殺すのは間違っている。俺だろうと、アンタがたみんなだろうと、政府だろうと同じだ」という言葉は、どの口が言うんだという開き直りにも聞こえるが、これこそが本作の見据えた、ただひとつの真実なのだ。
兎に角、彼の処刑をどんな気持ちで眺めたか、これまでどのような立場をとってきたかに依らず、その場のすべての人が、眼前にて人ひとりの死を目撃したことで、「人は生きて死ぬ」という至極当然の摂理を分かち合えたことだけは確かだろう。

私は死刑制度に反対とか賛成とかあんまり考えたことないし、そのルールが問題なく運用されているのならいくら残酷でもアリだと思うんですけど、殺された人の遺族の無念を晴らすため死刑に賛成だという考え方は、あまり好きじゃない。
遺族の感情が云々というのなら、死んでも誰も悲しまない奴なら殺してもお咎めなしという逆説が成り立たなければおかしいでしょう?
これは屁理屈でも何でもなくて、司法の場では、聖人だろうが極悪人だろうがすべての人間が均一に扱われるべきであり、ルールとは極端にシンプルであるべきで、裁判となれば事実のみを参照し、それ以外の要素を極力排除して答えを出し、その後で適切な処罰なり何なりを科せるべきだからだ。
その取り決めを無視することは、法治の在り方そのものを否定することだと思うので、滅多なこと言うもんじゃないと思いますのよ。