Jeffrey

青春PART IIのJeffreyのレビュー・感想・評価

青春PART II(1979年製作の映画)
2.0
「青春PARTII」


本作は一九七九年に小原宏裕がATGで、監督、脚本を務めた青春映画で、この度DVDにて再鑑賞したが良い。競輪選手の可能性を知り、走る事に青春をかけた青年を描き、まず二つの世代を通して物語を描き競輪選手のストイックな生活を南條弘二が見事に熱演し邦題の意味を知る時一気に感情が高ぶる。この映画には非常に主人公がハングリー精神を持って描かれているため、当時かなり意味深いものになっていたと思う。基本的に家ヒエラルキーの体系の中で映画は、青春を上から押し付けってくるものである事が写し出されており、自分の自立を達成したり、反逆が同時に獲得となっている点、積極性が非常に良かった。そもそも変転していく多様な現代社会で、競輪の特殊な世界を描いて、新鮮でみずみずしい作品を制作したのは興味深いと言える。

青春の孤独の極限のテーマにあえて挑戦した、若い監督の意欲と情熱は高く評価されたんだと思う。これまで、いくつかのドキュメントドラマが、競輪界で制作されたが、今回の本作の作品には明るさがあり好感が持てる方だった。作品の輝きが銀輪の光のような美しい眩しさとなって、現在を生き抜こうとする若者の苦悩を照射し魅力的である。特別の業界の制約のためか、いくつかのツッコミの足らなさも、うかがわれるが、五所氏の言葉通り拍手を送りたいと思う。ここ最近の青春映画と言えば、写実主義的な青春ものが多くてゲンナリする。肉体と感性を非日常的な場にさらすことを嫌うような、ハングリーな危機状況を避けて通っているような、妙に着飾っている若者像を描いているのが気になる。本作は競輪映画と言う面から見れば、珍しい八百長破りの話であり、適正組と技能組と、選手の出身別の競い合いの中で、適正上がりにスポットを当てた話とも言える。

競輪学校の日常が、警官や自衛官などの国際機関よりも厳しい教育界で行われ、階級が色彩別で分けられていることも面白く描かれているし、そこが高度の資本主義構造の中で、一攫千金的な甘い汁が吸えるものを育てる数少ない組織であることをぬけぬけと見せていることも興味深く誘惑的な面を描いている。そもそも本作に出ている競輪選手の中野浩一がベネズエラ行われた世界選手権自転車競技大会で日本代表選手として出場した際に、種目のピストの花と言われるスクラッチ競技で、世界の強豪ニコルソン・トリニーを破り、日本人として初めて金メダルを手に入れたことが思い出される。二十年間出場して、その間の最高成績が阿部良二の三位であったことを思えば、嘘のような話である。しかもミュンヘンで開催された世界戦でも"V2"を飾るほどである。どちらかと言うと日本国内よりヨーロッパにおける彼の人気と名声は高いと思う。実際佐世保競技場のシーンで選手として出演中の彼の描写は圧巻である。

確か中のビックタイトルの一つ競輪王までも手に収めてしまった。まさに天才レーサーである。この映画を見て、競輪の世界がこんなに近代化されているのにまずは驚いた。競輪に対して全く興味のない、関心のなかった自分にとって、選手育成の為のあのような立派な学校があるなど思ってもいなかったし、その学校でのハードな訓練場面など、私の知識の中になかったことで、私自身の認識不足を感じてしまうくらいだ。私個人、興味のないものはとことん興味がないまま終わらせる癖があるため(笑)。しかも、当時(今で言う現在の若者)の生活実態を紹介しているのも非常に面白い。テーマへと展開していく物語だ。一枚のポスターがきっかけで人生の進路を見出し、競輪選手として素晴らしいスタートを切ろうとする主人公がまた良かった。しかも銭湯で見かけたポスターで…。


いゃ〜、競輪にかける青春を描いた映画はよくあるが、競輪を駆ける青春を題材にした作品は珍しいのではないだろうか。題材の物珍しさもさることながら、展開されている小原乃の青春論にまず目を向かされるのではないか。この青春映画に、奇妙な形で投影している師弟関係のユニークさに、作品の優れた特異性を感じるのだ。洋の東西を問わず、青春映画には、師弟関係がどんな形であれ出てくる。師弟を関係づける人物が登場する。先生と生徒、教師と学生といった直截な形を取らないで形を含めて、まるで青春映画成立の写件になっているように登場してくる。この師弟関係の有り様、描き方が、作者の青春(映画)の思想を考えるカギになると思う人も多くいると思う。実際作品を研究していた斎藤正治氏はそう言っている。

このような映画は、黒澤映画の思想が、戦後の日本映画の師弟のかなりの部分を支配し、さらには家の思想に拡大されていくのだ。小津安二郎や木下惠介によって、家父長家族制度が民主主義、家庭主義的変貌を遂げていた一方で、黒澤映画はその崩壊する家父長制への歯止めの役割を担うことになって、家の思想が拡大を寄写するのではなかろうか。基本的に黒澤映画にも出てくるこの要素は、秩序のヒエラルキーの希望であり、確立にあるのだ。デビュー作の「姿三四郎」以来、一貫して弟は師を越えられない、超えられなかったのである。彼の人間関係を見る目は、そういう秩序感覚であり、それが作品のなかの強者ー弱者の関係にもなり、ひいては家父長家へとつながっていくのだ。本作を見ると非常に自分の青春を生きることすらひどく難しくなってきていることがわかる。家族が立ちはだかるのだ。
Jeffrey

Jeffrey