ルサチマ

奈緒子のルサチマのレビュー・感想・評価

奈緒子(2008年製作の映画)
4.9
私的な思い入れではあるが、7月18日は現代映画を担う最高峰の宝だと思っていた堀禎一と、三浦春馬の命日だ。一年前の7月18日は堀禎一の追悼特集を神戸まで観にいった帰りに、三浦春馬の訃報を知り、帰りの新幹線で茫然と外の窓を眺めていたことだけを覚えている。

あれからもう1年が経つことが未だに信じられないが、久しぶりに『奈緒子』に焼き付けられた若き三浦春馬の姿を見ていたら止まっていた時間が動き出していることに漸く自覚できた。若き素晴らしい日本映画の宝である2人を忘れないためにも、また彼らの映画が全国で上映されてほしい。そしてそのためなら、どこまでだって駆けつけよう。

三浦春馬の1周忌に、偉大な彼の出演したこの傑作を再見した以上、この映画の美しさをせめてもの追悼の思いとして綴りたい。

雄大なロングショットは最早消滅した現代日本映画に対抗するかのように、この映画は古典映画の復活を呼びかけるごとく見事なロングショットで構成していく。

海に面した海岸沿いを走る若者たちの姿をロングショットで捉えたカメラが被写体に接近した時、カメラはまるでアメリカ西部を走るカウボーイの馬を見つめるかのように、上半身の身振りからなだらかに下半身の脚についた筋肉を注視するように動き出す。

常にリードする存在であった三浦春馬を追いかけるためにチームメイトのみならず、本来選手でもないはずの上野樹里までが彼に呼応するかのように脚を懸命に動かすのであり、カメラはそこに性差など存在しないことを自明のこととして、三浦春馬たちランナーと同様に上野樹里の姿を的確に捉えている。
だからこそ、この映画は他の青春映画のようにわかりやすい男女間の恋愛などをきっぱり捨て去り、カメラはマネージャーをランナーとして後押しするためだけに加担する。
それこそが何よりも純然たる青春映画なのだと、他の映画たちと相混らぬ美しさを高らかに宣言している。

チームメイトはそれぞれに異なる葛藤を抱えながらも、監督と三浦春馬から教わったフォームを引き受け、(怪我をしてもなお)肘を曲げて走るという同じ動作を共有する。

当たり前のことすぎるのは承知の上で書くと、駅伝が他のチームスポーツと決定的に異なるものであるのは、一般的なメジャースポーツにおいて、チームスポーツは各々が異なるフォームを自由に取る身振りが与えられている(ボール競技ならボールを持つものとそうでない者では明確な身振りの違いがある)のに対して、駅伝はあくまで走るという行為一つにおいて相手チームを含めた選手全員が同じフォームを形成する。

ランナーたちが仲間の名前を呼びかけて走ることを促し、そしてアンカーの三浦春馬でさえもが、かつての父の存在と、この駅伝にかける監督のために走る。

彼らを繋ぎ止めているものがあるとすれば、それは給水のペットボトルや襷などではない。
彼らが襷を渡した後であっても、そもそも襷を持たぬ者までが一緒にランナーと共に走っていたのはなぜか。
彼らは誰もが全力で肘を曲げて脚を動かすという身振りのフォームをともに共有していることを示しあうことが駅伝においては何よりも大事だと伝え合っているかのようだ。

そこには足の速い遅いは関係ない。ただ仲間と共に同じフォームであることを見せつけさえすへばいい。

間違ってもこの映画には他人のために自己犠牲をする精神などを誉めたたえるものはない。

バーベキューシーンが顕著であるように、あくまで彼らは全員が各々好き勝手に楽しむ個人プレー集団であり、彼らは駅伝のためのつかの間の共同体でしかないことは簡潔に示されているからだ。

そんな個人プレー集団の個人が、己のフォームを相手に見せつけるという自己顕示そのものが他者を引き寄せ、たった一瞬であっても他者とのつかの間の共同体を形成しあう可能性があることの美しさをこの映画は切実に物語っているのだ。

そしてその美しいフォームのモデルをたった1人で最初から最後まで担って見せた三浦春馬の素晴らしい疾走する肉体の身振りがいつまでも脳裏に焼き付く。
この映画は確かに存在した偉大な俳優の存在をいつでも思い出させてくれるなくてはならない一本。
ルサチマ

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