ティムロビンスに激似

東京物語のティムロビンスに激似のレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
5.0
「古き良き日本」「昔の日本人は親孝行を当たり前にしたものだった」というノスタルジーが全くの無意味であることは、本作を見れば明白だ。
町医者の長男(幸一)とその子供達は、都会である「東京」とは全く異なるリズムを持った両親の来訪を疎ましく感じている。美容院を営む長女(志げ)は自分勝手に両親の気持ちを慮り、熱海旅行(当時は若者の旅行地というイメージ!)に押しやることを提案する。国鉄に勤める三男(敬三)は、忙しさにかまけて顔を合わすことすらしない。
そこに現れるのは、戦死した次男の妻、原節子演ずる紀子である。彼女は献身的に義理の両親を東京案内して周り、食事を共にし、自宅に泊めてあげる。3人は実の親子のように心を通わせる。
こうした光景に私は終始心を揺さぶられ続けた。ああ、私は亡き祖母に対して本作の長男の子供達のような態度をとっていなかったか。父や母に対して紀子ほどの感謝の意を表して接しているのだろうか…と。

原節子。その稀代の女優が演ずる紀子はあまりにも美しく、あまりにも切ない。未亡人である彼女が苦労して暮らしていることは、その生活ぶりから容易に想像出来る。おそらく当時の日本社会における彼女に対する視線は厳しいものがあっただろう。そんな生きづらい戦後日本で健気に生きる彼女に、神々しいまでの美しさを感じずにいられない。
紀子は決して自分の生活に文句を漏らさず、義理の両親に実の娘のように優しく接する。あまつさえ、兄や姉の無神経さに憤る次女の京子に対し、義理の兄姉をかばいつつ、京子を諭すことすらする。しかし、最後に彼女はついに義父(幸一)の前で「本音」を吐露する。そんな彼女に義父(幸一)は新たな家族を持ち、未来に生きよと励ましの言葉を贈る。
一見緩やかで、ヤマ場も見せ場もない映画のようだが、それは間違った見方だ。本作は冒頭からずっと観劇者の心を揺さぶり続ける。ラストの紀子が本音を吐露するシーンは最大のクライマックスだし、義父(幸一)が義母(とみ)の形見を紀子に手渡すシーンにはカタルシスすら感じる。

そして、本作では、小津監督作品の特徴的なカメラワークである、ローアングルから撮るお茶の間の風景、人物が会話する際のカットバック等を余すことなく堪能することができる。
また、小津監督作品のもう一つの特徴に、様々な「反復」シーンがある。
例えば、冒頭の両親が住まう尾道のシーンで、次女の京子が出かける際に、道端で遊ぶ子供達がすっくと立ち上がって京子にお辞儀をする。同様のシーンがラストシーンにも出てくるが、「なぜ子供達は京子にお辞儀をするのか」という疑問もさりげなく回収される。
あるいは、東京見物をする際の観光バス内のシーン。舗装されていない道をガタピシ走るバス内は大きく揺れ、乗客たちの頭も揺れに合わせてリズムカルに上下する。バスガイドに促されるままに、一斉に右に左に窓を見るシーンは、まるでダンスのようだ。

静けさの中にダイナミックなリズムと情感が惜しげもなく詰め込まれ、観れば観るほど新しい発見を産む本作は、間違いなく私にとってのオールタイムベスト日本映画である。