真田ピロシキ

東京物語の真田ピロシキのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
5.0
若い時分に小津安二郎の何かを見た時は何て退屈な映画だろうと思った。最近は好みが変わってきたように感じていたので、試しに見てみたら染みる。歳を重ねなければ分からない良さはある。

尾道から息子と娘がいる東京へやってきた老夫婦。まだ電車で半日かかっていた時代。そう度々会えるものでもなく、あまり面識のない孫などは嬉しくなくて祖父母が泊まるために自分の机を動かされてあからさまに嫌がっている。下の方の孫も持て余した婆ちゃんと話すことがなく婆ちゃんが半ば1人思ったことを話している。子供達も各々仕事があるので構う暇はなくて、滞在3日目くらいには熱海への宿泊旅行を提案する。厄介払いでしかないのだけれど、当人達は親孝行していると思っていて老夫婦も一応好意でやっているのは分かっているから文句を言ったりはしない。内心言いたい事は色々あっても友人との酒席以外では黙ってるのが大人の付き合い。正直に言えるのが理想と言っても、それが必ずしも良い結果を招くとは限らないのだ。

実子より戦死した息子の妻である紀子の方がお互い打ち解けていて親身に感じる。これを実の親子より愛があると単純に言えるのでもなく、所詮他人だからの気楽さも大きい。その気になれば紀子は一方的に関係を断ち切ることだって出来る間柄。スレ違いもあって「まだ若いのだから息子に気を使わず再婚しなさいな」という親切な申し出は迷惑に感じている節がある。東京に来た時は「案外近かったですねえ」と言っていたのに紀子に尾道へ来ることを提案した時は「でも遠いからねえ…」と遠慮がちになっていたのは地理的時間的以上に心理的な距離の隔たりをひしひしと感じさせる。そうした心の機微を雄弁にしすぎずに物語るのが名作の格調高さで、昨今の感動を売りにした家族ドラマでは感じられない知的さ。

映画の終盤、尾道で同居している末娘は兄や姉の酷薄さを紀子に憤慨する。確かに姉は観客目線では嫌なオバさんである。しかし別に親を嫌っている訳ではない。心配はしているし死んだら悲しい。ただ現実の家族は四六時中愛を100%向け合うのではなくてある所ではドライ。そこがまだ若い末娘には分からず紀子が理解を示しつつも窘める。「あなたも私もその内そうなるのよ」と。紀子が冗談で言っていた「私は歳をとりませんから」には最後まで見ると深い哀愁がある。誰だって変わらずにはいられないのだ。世間では老害の典型として捉えられる若者disであるが、10代と20代と40代と60代では物事の捉え方が異なってて当たり前。若い価値観を受け入れる余地を持つことと若者に迎合するのは全くの別なのに、体は大人で心は子供の幼稚さが肯定されすぎてると感じる。様々な分野における日本の劣化はそこに起因していないだろうか。

紀子を演じた原節子が本当に綺麗で小津安二郎が何度も重用したのが頷ける。概念としての昭和の大女優像を体現していて、20世紀最高の日本人女優と言われるのも納得させられる。他の出演者も表情の節々から情感を見せてくれて、そこにスペクタクル的な興奮を覚えさせられる。