フラハティ

東京物語のフラハティのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
4.9
本作が念願の小津デビュー。


日本が誇る名監督小津安二郎。
本作は多くの映画ランキングで必ず名前が挙がるほどの名作。
遅ればせながら、名監督に挑む。

難解という勝手な先入観があり、カメラワークがどうとかなどの技術的な素晴らしさならわからないだろうと腹をくくっていたけれど、いやはや素晴らしかった。
何度か観れば、多くの解釈が生めるだろうし、監督の作品を多く観ていけば、本作で伝えたかったテーマは見えてくると思う。だから今はとりあえずの自分の感想。
現代にも通ずる普遍的な物語かつ、人間の誰もが通る道がいかにつらく険しいのかを教えてくれる。


戦後の東京。
尾道からはるばるやってきた老夫婦。
最初は快く受け入れるが、段々と雲行きが怪しくなっていく。

現代ほど、本作が描きたい背景というのはとても際立っている。
家族の在り方とはいったい何だろうということ。
親という存在はいったい何だろうということ。
他人、ひいては人間とはいったい何だろうということ。


本作の舞台である東京は、戦後復興から大都会へと変貌を遂げる前。
そして、仕事で忙しくなるというのは必然であるだろう。
どこか冷たくあしらっている長男長女。
仕事の忙しさにより、両親をかまう余裕がなくなってしまっている。

忙しいというのは、日々の些細な感情を打ち崩す魔物。
だが生きていくためには仕方のないことでもある。
人間が持つ繊細な感情や、本音を語り合うという空間。
避けられない死という事象すら、魔物の前では太刀打ちできない。

本作で非常に印象的なのは老夫婦の笑顔。
家族の前では本音を語らず、笑顔で過ごしている。
だが友人の前では本音が漏れるし、人間の持つ“本音と建前”というところなのだろう。
でも本音で語り合わなければすれ違い、お互いが嫌な気持ちになってしまうこともある。
これこそ、近しい人間ほどに感じる気持ちだと思う。

しょうがないと社会の在り方を受け止めないと、苦しんで生きてしまうことになる。
『他人が変わらないなら自分が変わるしかない』という言葉のように、『社会が変わっていくなら自分も変わっていくしかない』状態となる。
社会的に弱い立場であるほど、その傾向は顕著であると感じるし、本作でも老夫婦や若い女性(紀子と京子)、子供たち(本作では素直すぎて反抗しているが)は、どうしようもないことと受け止めなければならない瞬間がある。
つまり同じ立場の人間でなければ共感は難しく、心の繋がりは現れないのかもしれない。


小津監督を敬愛するアキ・カウリスマキ監督が、「私がそうであるように、きっと未来よりも過去を見つめるのが好きな人間なんでしょう。小津さんは。」と語っていた。
その言葉を通じ、本作で感じたのは人間の本質といった部分。
人間の本質は、きっと過去だとしても未来だとしても変わっていくことはないはず。
「私はずるい人間です。」という言葉も、「嫌な世の中ね。」という言葉も、人間は理想があったとしてもその通りには生きていけないという言及。
確かに人間とは完璧ではないけど、心の奥底に持つ優しさと思いやりは、人間というものを豊かにしてくれるはず。
現に、今生きている誰にだってこの映画の本質は響く。


現実は確かに厳しく、嫌なもの。
理想は誰もが支え合い、優しさを与えていくもの。
親を大事にすることはもちろん忘れてはいけないこと。
そして他人のことを大事にすることも、同じように必要なことなのだ。
理想は叶わないかもしれないが、できるだけに理想に近づくことはできるはず。
この社会では仕方がないということではなく、一人一人の心持ちで変えていくことが大切。


人と人は繋がっていて、本心を語り合うこと、思いやることは、毎日心に留めておかなければならないこと。
小津さんの魂は国を越え、年代を越え、伝わっていくのだ。
フラハティ

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