ケンシューイ

東京物語のケンシューイのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
5.0
ロー・ポジションであるということ。

小津調と呼ばれる独自の演出法。
子供の頃は、それがどうした、なんてつまらない映画なんだ、高く評価されてる理由がさっぱりわからない、なんて思ってた。
年齢を重ねて、『志民ケーン』などの名画にも触れてみて、少し自分なりに映画の見方を勉強し直してみたところ、この作品に対する印象がガラッと変わってきた。

それは、人の心を察するということ。

物語はなんちゃない、ありふれたよくある話しなんだろうけど、そこから伝わってくるもの、心に響くものが抜群に違ってた。
カメラは動かず、フレーム内に収められた人物がほとんど正面でとらえられる。奥行きだけが変化して、時おり表情のアップが挟み込まれ、それを低い位置から胸の内を覗き込むようにして見つめていくことになる。相手の目を見て話す、そんな当たり前のことと同じような感覚。この映像には、人物の心情面が視覚化されている。余計なものに意識がいくことがないから、否が応でもこの点に意識が集中させられる。

人はどんな人間関係を築いて生きていくべきなのか。そんなことを考えながら、ここでの原節子さん演じる紀子の姿を眺めていると、次第に日々の自分自身が恥ずかしくなってきた。残念ながら共感というか、思い当たる節を感じざるを得ないのは、紀子以外の血の繋がった家族たちの方。年老いた両親を厄介者扱いする息子たちの有り様。彼らと対比される形で見せつけられる紀子の対応には、おもてなしの心があり、自分のことを差し置いて人のことを悪く言ったりすることはない。出会った人との関係を大切にしていて、人と繋がっていることに喜びを感じている。ストーリーが終わりに近づいていくほど、この部分がどんどんと増幅されていき、最後には観ているこちら側の感情もグワーっと込み上げてきてしまった。凄い演出にやられる。
紀子は何を考え、何を思って生きていたのか。まだまだその心の部分を本当の意味では理解できていない。だから、この映画は何度も何度も。その美しい心を薬に、自分の醜い内面へと塗り込ませたいから。

もうすぐ平成も終わるけど。
この映画がどれだけ世界から称賛されようとも、この昭和の空気は日本人だからこそ感じとれるもの。
だけど、小津監督が残してくれたものは、あまりにも偉大すぎるから、近くに見えてるようでいて、やっぱりまだまだ遠くにあるままのようだった。