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セールスマンの死のRのレビュー・感想・評価

セールスマンの死(1951年製作の映画)
4.2
主人公は60過ぎのセールスマンのウィリー。毎日家から遥か遠くまで車で営業に出かけて行くのだが、歳をとって勢いがなくなってきたので、だいぶサラリーカットされて、売れた分の歩合を少々もらうだけになってしまった。なので家のローンやらが払いづらく、苦しい状況。ふたりいる息子はロクに仕事につかず、30過ぎてもダラダラしてるだけ。ところがウィリーの昔気質の自信に満ちた尊大な態度だけは変わっていない。そんなあまりにも不如意な状況で、少しずつウィリーの頭がボケていく様子を、厳しいリアリズムに過去の回想を織り交ぜ、てかウィリーの現実のなかに、幻想が目の前で展開するような形で描いている。ウィリーが仕事ノリノリでよく儲けてたころ、息子は大学生で勉強そっちのけでフットボールの花形として大活躍、隣のヒョロヒョロのガリ勉息子を小バカにして、ウハウハな生活を送っていた。その頃の栄光がダークでダウナーな現実にしばしば割り込んできて、鮮やかなコントラストを成し、一層、現実が陰鬱にのしかかってくる。しかも、隣のガリ勉は、何と、社会に出て大成功を収めているのだ。同じ画面のなかで、過去に出たり入ったりする演出の面白さもさることながら、どんどん堕ちていくウィリー一家の痛烈な悲劇が、すごい見ごたえ。これは、一見アメリカンドリームの挫折という局所的な現象を描きながら、過去も現代も全く変わることのない真理の一側面を描いた傑作だと思った。すなわち、諸行無常のことである。これぞ、まさに、驕れるものはついには滅びぬ。そして、最後にとあるおっさんがものすごく厳しい教訓を語って終わる。いやーーー。何だかんだで日本の家庭の多くも、実は遅かれ早かれこんな感じによくなってそうだよね。だってよく考えると、首にはならなくても、みんな最後には老いて、会社に、退職おめでとう、今までありがとう、(もうあなたは要りません)て言われる運命なわけでしょう。たとえ子どもが社会的に成功していたとしても、親と離れてしまえば、年に何回かしか会わなくなし、離れてなくても、年がら年じゅう直面するのは自分という存在のはかなさ。成功した子どもも、そのうちやがて会社に捨てられていく。永遠に続く使い捨てサイクルでしかない。で、思ったのは、以下の三つ。真の安定とは、愛想がいいとか大企業に就職とか関係なく、その人自身に揺るがぬ実力があること。真の喜びとは、結婚とか家族とか関係なく、深い深い友情が人生にあること。真の強さとは、ヤージュナヴァルキヤよりさらにずっと前から言われているように、老いや死にさえも脅かされない、完成された主体性を獲得すること。人生を最後まで幸福に暮らそうと思ったらこれしかない。けど、普通にまぁまぁそこそこ幸福な人間は、みなウィリーと同じように、今のままの状態が永遠に続くと錯覚している。ところが、あらゆることは、有ではなくて空なのです。気づいたら遅かったってなっちまう。そうならぬためにも、普段から、普通にまぁまぁそこそこの幸福、ではなくて、生きていること自体が楽しくてたまらないという状態を、我が物にしながら生きていく以外にないのである。と見ながら思った。うん、頑張ろう。
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