ペジオ

カポーティのペジオのレビュー・感想・評価

カポーティ(2005年製作の映画)
4.2
僕の話はいいからさ、君の話を聞かせてよ

「自分の話しかしない」人間は→回りから疎まれる→結果嫌われる→故に悲しい
「自分の話をしない」人間は→それだけでもう悲しい
誰かに語って聞かせるような価値を自分の中に見出だせないから
それでいてどこまでも肥大する「自意識」を自分でも捉えきる事ができないから
だから自分以外の情報や二次的経験、「他人」をネタにした話をして自分の欠落(もういっそ「欠損」と言ってしまっても良い)した部分を埋めるのさ
周囲の笑い声と偽物の充足感に包まれる事が、より自分の孤独を、「自分以外の物事だけで語れてしまう程度の自分」という悲しさを浮き彫りにする
それでも止めることはもうできない、誤魔化して生きていくしかない
ある種の「聞き上手」とはかくも悲しき生き物であるのかもしれない…
(何故か「ラブ・アゲイン」のライアン・ゴズリングを思い出した。)
……ていう僕の「自分語り」

ノンフィクションという「他人の話」で名声を得ようとした男の伝記という「自分の話」
思いがけず他人の中に見出だしてしまった「自分」と作家としての「自分」とが剥離し神経衰弱に陥る…と言って終わらせてしまうには複雑すぎる人物像を演じきったフィリップ・シーモア・ホフマンはやっぱり稀有な俳優だったのだな
彼が素晴らしいのは一旦置いといて、あらゆるシーンでカポーティを決して一つの解釈に落ち着けない、まるで「自分」を語るのを避けるような一定の距離感を保ったトーンが好み
結果「台詞(言葉)」は少なくなるがその理由とは?
あえてわかりづらくしているのか、それとも本当にカポーティという人間がわからなかったからなのか
あるいは、そもそも「人間」とはわからないものなのか

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
(他人の言葉の引用)
ペジオ

ペジオ