優しいアロエ

ラルジャンの優しいアロエのレビュー・感想・評価

ラルジャン(1983年製作の映画)
4.6
〈人の手を渡り、悪意と不条理を撒き散らす横長のジョーカー〉

 一枚の偽札からはじまった悪意と不条理の連鎖を「結果」に絞って書き留めていくミニマリズムの極致。説明も排除、感情も排除。そんなブレッソンの美学は「殺害」「自殺」といった重大な局面にこそ嬉々とし、ただただ「結果」を「手」が語る。贅肉どころか必要な筋骨すら削ぎ落とす彼の美学を前に、僕らが培ってきた物差しは呆気なくへし折れる。

 後半には、衝撃的で悍しい展開が待ち受ける。表面上は金や住居のために人を殺めたようにとれるのだが、不条理に足を取られつづけたイヴォンにとって、あの殺害は、“もっともな理由によって投監されなおす”ことで不条理から脱却する意味があったのではないだろうか。

 そしてあの展開は、バルタザールと同じく完全なる被害者に見えたイヴォンすら最後は悪意の連鎖の一部へと取り込まれるところに、大きな意味があるはずだ。思えば、すべての始まりに見えた少年の「偽札」も、彼がつくったのではなく、不良仲間など別の人間に譲り受けたものかもしれない。本作の連鎖は始まりも終わりもわからず、どこまでも途切れないように見えるのだ。そんなことを考えたとき、ようやく序盤にカメラ屋の店主が吐いたセリフが効いてきた。

「偽札はこのパリにいくらでもまかり通っている」

 この「偽札」は、ババ抜きのジョーカーのようにパリ全体を廻っていき(もしくはパリの外まで廻っていき)、悪意と不条理を人々の「手」の中に忍ばせていく。そんな混沌に満ちた現代を描くのに、いちいち感情など込めていられない。ブレッソンが追求したミニマリズムはそんな世界への諦観から来るのではと、なんの文献も読まず勝手に想像していた。

 そんな本作の「偽札」は、悪意を媒介するはたらきをとる意味で、バットマンの宿敵ジョーカーとも似た役回りをしている。道化師のようなルックだけが類似点だと思っていたトランプのジョーカーとバットマンのジョーカーが、本作の「偽札」を以て真に繋がった気がする。
優しいアロエ

優しいアロエ