レインウォッチャー

コールガールのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

コールガール(1971年製作の映画)
4.0
その路地は誰かの心へ続いている。

ある失踪事件を捜査する中で、私立探偵クルートはNYのコールガール、ブリーと出会う。事件を追ううち、二人の距離は徐々に近づいていく。

ミステリー仕立てと思いきや、早々にタネは明かされる。
つまり今作は謎解き自体が目的ではなく、調査の過程とそれに並走する心理の揺れ動きこそが見どころの作品なのだと思う。それも、どちらかといえばメインは男ではなく女のほうだ。

原題は『Klute』、つまり探偵(ドナルド・サザーランド)の名前だけれど、実際はコールガールのブリー(ジェーン・フォンダ)の比重が大きい。
クルートの心理描写は最小限で、そのバックグラウンドもあまり明らかにされない。常に物憂げな眼が印象的ではあるものの、時に幻影かと思えるほど実在感がないともいえる。

反面、ブリーの情報は多い。相当に人気のコールガール(※1)であること、仕事を通した人間関係、口癖の「Terrific !」に飼い猫のトミー、女優の夢を追っているがなかなか結実しないこと…など。

むしろクルートとは、ブリーの内面的な「影(=シャドー、もう一人の自分)」の現れであると捉えても良いのではないだろうか。
クルートがブリーの部屋を初めて訪れる際、その姿は完全なシルエットとして描かれる。また、彼女が度々カウンセリングにかかる場面が挟まれることもそんなイメージを強調する。

彼女は分析医に対して、仕事に対する考え方をこんなふうに語る。
「主導権を握れるから好きよ。人生をコントロールできてる感じ」

一方で女優の夢は思い通りにならず、頼るべき人間も少なく、彼女は都会で孤独とジレンマを抱えて淀んだ停滞の中にいる。
そこに闖入者として現れるクルートに対してブリーは初め反発するが、やがて距離が近づいたときこんな「困惑」を分析医に打ち明ける。
「こんなことは初めてで、楽しんでいることに戸惑ってる」

これはロマンス的には、プロの女性が垣間見せたピュアで可愛らしい素顔、というようにも考えられるけれど、同時に抑圧して直視を避けてきた自らの別の側面と対決するプロセスの本質をよく捉えてもいる。

クルートはいつしかブリーのそばに寄り添い、無条件に守るようになる。彼は彼女が内包していた男性性であり、彼女の「強さ」「自尊心」を再構築する象徴となる存在なのだと思う。
事件の調査はそのまま、彼女が自分の忘れたかった過去を掘り起こして、愛情に飢えていることを一度認めるための通過儀礼となり、彼女はクルートの姿をした「影」と対話・融和することで本来の自分を取り戻し、人生を再出発させるのである。

このように、淡白なミステリーのようでサイコロジカルドラマとして見れば非常に楽しめる本作。その思考を助けると同時にこれもまた争い難い魅力となっているのは、洗練された映像美である。

70sネオ・ノワールのマナーといえると思うのだけれど、それにしてもやりすぎじゃあないかと思うほど暗い。
だが、その境界を攻めた暗闇の侵食を完全に手懐けてバッキバキに決まり切った絵画的なショットの連続で構成されており、作品の品格を数段押し上げていると思う。音楽もジャジー&不穏で良い。

中でもわたしベストは序盤、ブリーがアパートの自室で寛ぐシーンだ。
マゼンタのナイトガウンを羽織った彼女が、蝋燭の灯のもと一服する…もちろん視覚的に美しいと同時に、彼女の人柄(豪奢な暮らしというわけではないが、品とこだわりを持っている)も伝わってくる。
名うてのコールガールというともすれば感情移入しづらい存在に対して、そんな彼女にも日常があるということを示し、その心の奥の暗がりへするっと導かれていくようだ。

-----

※1:彼女の人気の理由であると同時に、イメージを補強するギミックとしておもしろいのは、ブリーの「接客」アプローチだ。
男たちをやさしくリラックスさせ、彼らの欲望を注意深く聴いて許容し、「解放すること」を促す。その手法は実にカウンセリング的ともいえる。
劇中ではその会話の録音テープが繰り返し使われ、物語のちょっとしたキーアイテムにもなる。