ナガノヤスユ記

キンスキー、我が最愛の敵のナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

キンスキー、我が最愛の敵(1999年製作の映画)
5.0
人類の記憶を追い求めるヘルツォークの極私的追憶映画。今は亡き盟友の姿を鏡にして、ヘルツォーク自身の姿もまた浮かびあがる。
個の力が強くなり、家族や小さなコミュニティの繋がりよりも、個人と社会の契約関係がかつてないほど重要となった現代。各々の人間には社会適合性が一層強く要求される一方で、個人間での暴力や争いは忌避され、そういったものは緩やかに、けれど確実に、表の社会から消えつつある。人間関係から得られるもののうち、公共の利益になりえないものは次第に淘汰されていく運命にあることは間違いないだろう。もはや私たちの間に憎しみの余地は理論上残されていない。
だがそのことは、私たちの結びつきを一層強めてくれるのだろうか。より固い信頼によって人と人が連帯していく未来を意味するのだろうか。

評論家の川本三郎氏いわくヘルツォークは「中世」の人だという。ヘルツォーク作品に現れる種々の動物や小人をはじめとするアウトサイダーは、それらがごくごく自然に、場に入り混じって生きていた中世社会の記憶を感じさせるものだ。
虚妄が強く、霊的で、臆病かつ傲慢。今の世にキンスキーのような人が現れても、立ち所に社会からはじき出されてしまうことは想像に難くない。死ぬまではいかなくとも、隠匿され、人の目の触れぬうちにそっと消えていくだろう。それは社会の合理的観点から見て、決して間違いとは言えない。そういう意味でキンスキーは、現代まで残ってしまった最後の旧人類のうち1人かもしれない。彼の存在やヘルツォークとの間の数々の逸話は、現代から消えつつある人間の(肉体的かつ非合理的な)関係の記憶を伝える。
だからこそ本作は、ごくごく個人的な、人間の関係性をかいま見るだけの映画でありながら、いつか人類の重要な記憶の一端を未来へ伝えるのかもしれない。

悪いことは忘れろと人は言う。悲しみや憎しみは捨て去ったほうがよいと。前を向いて生きていくしかないのだと。だが、憎しみと共に捨てられるはずの何か重要な記憶に思い及ばせる人は、今日ほとんどいない。

「時おり、彼を抱きしめたいと思う。一緒に映っている古い映像を見たから、そう思うのだろう。私たちは友達で、当然のように、冗談を言い合っている。私たちは一体だった。一緒に破滅する覚悟ができていた。一緒に船に乗っている私たちを思い返す。全世界が我々のものだ。だがクラウスは飛び去ろうと望む。私は気づかなかったのか? 飛び去ろうとしたのは彼の魂だった。そして一匹の蝶とたわむれる彼が見える。この小さな生き物は彼から離れようとせず、クラウス自身が蝶になってしまうかのようだ。私たちの間の重苦しいしこりが消え去る。私の理性に抗って心の中の何かがこう言う。私は彼を記憶に刻んでおきたいのだと」

泣いた。