カタパルトスープレックス

どん底のカタパルトスープレックスのレビュー・感想・評価

どん底(1957年製作の映画)
3.4
黒澤明監督による江戸時代の長屋を舞台にした群像劇です。

黒澤明監督のテーマは「ヒューマニズム」で「善く生きる」だと解釈しています。「善く生きる」とはどういうことなのかを映画の登場人物を通じて見せる。それが『羅生門』(1950年)から反面教師を見せることで「善く生きる」とはどういうことなのかの問を投げかけをするようになりました。本作の登場人物たちも「善く生きる」とは対極的な暮らしをしています。僻み、やっかみ、嘲笑する。「意識高い系」という言葉が流行りましたが、あれにも嘲笑的な含みがありますよね。たまにそういう嘲笑的な人を見るとうんざりしてきます。

本作は群像劇なのでこれといったストーリーはありません。長屋にお遍路の嘉平(左卜全)がおとづれて、長屋の住人の話を聞く。ただそれだけです。長屋の人たちは普段は自分の話をまともに聞いてくれる人がいないから、何も言わずに聞いてくれる嘉平にはよく話す。それをはして聞いていた人たちが茶化す。

珍しく志村喬が出てない。今回、志村喬的な役割を果たすのが左卜全。これは成功ですね。お遍路の嘉平がその役割なのですが、志村喬だと説教くさくなる。答えを出そうとする。とぼけた左卜全だからまとまっている。

本作、左卜全がいる前半はとても善くできていると思うのですが、左卜全が退場した後半からまとまりがなくなってきます。物語の着地地点が見えなくなる。そして馬鹿囃子がはじまる。その中心は人の話を茶化してきた人たち。それがある事件で中断。「せっかくの踊りをぶち壊しやがって」と吐き捨てて終わる。これをカタルシスと捉え素晴らしいクライマックスだと評する人が多いと思います。ただ、ボクはそうは思わないんですよね。

なるほど、映画的には素晴らしいシーンだと思います。でも、そこには黒澤明監督がテーマとする「ヒューマニズム」がない。「どん底の人たちが力強く生きていく輝き」みたいな前向きな捉え方もできるのでしょうが、それを嘲笑という形で表してはいけないと思います。その行為を持ち上げてはいけない。頑張ろうとしている人たちを斜に構えて嘲笑する人は本当に嫌いです。そんなのはヒューマニズムではない。映画的にはいい作品だと思うのですが、好きな作品ではないです。