茶一郎

どん底の茶一郎のレビュー・感想・評価

どん底(1957年製作の映画)
4.4
 「はきだめ」と呼ばれるオンボロの長屋、そんな「どん底」にいる9人の住民、彼らの元に巡礼の嘉平(左卜全)がやって来た。人生のどん底に甘んじている者たち、どん底を抜け出そうと何とかもがく者たち、嘉平の登場により彼らの行動が少しずつ変化してゆく。
 人生において、闘うことをやめた者、未だ闘い続ける者、両者を見つめるクロサワの視点が光る。
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 ロシアの社会主義作家マクシム・ゴーリキーの同名戯曲を、江戸に置き換え映画化した一本。
 言わずもがな、黒澤明監督とロシア文学との関連性は強く、ドフトエフスキーの『白痴』の映画化や、トルストイの『戦争と平和』を基にした『七人の侍』、同じくトルストイの『イワンイリッチの死』を基にした『生きる』など。厳しい自然(環境)の中で、力強く生き抜こうとするロシア文学の生命力の強さは、黒澤明監督が描き続けるヒューマニズム、人間賛歌と共鳴する。

 しかし、クロサワの「ヒューマニズム」という観点から見ると、私は、今作に少し歪な感覚を持った。その歪さは、今作が「夢」や「人生における可能性」の「呪い」の側面を暴いているという点。つまるところ、巡礼の嘉平は、「天使」(菩薩、仏)なのか、「悪魔」なのか、どちらにも見えるということだ。
 舞台となる陽の当たらない長屋(どん底)は、社会の縮図。希望と絶望が同居する長屋に突如と現れた嘉平は、どん底にいる人々に、「死の先の自由」、「世界の可能性」など希望を与えると同時に、人の欺瞞を嘲り、人生の可能性を諦めるように勧めることもする。どこか諦観に満ちた、人生を達観する存在としての嘉平、どん底の住民の服が黒い中、彼の服は白く、神々しい、きっと彼は神か何かなのだろう。
 しかし、この神の仕打ちは残酷、可能性を夢見た者の末路は物語終盤で明かされ、変わらず人生を諦めどん底に居座り続ける者は酒を飲み現実から逃げた。
 戯曲『氷屋来る』は、戯曲『どん底』をベースにして作られているが、私には、嘉平が、『氷屋来る』における「氷屋」に見えた。彼は、夢や可能性の持つ「呪い」の側面を知った上で、人々に希望を持たせ、その希望が叶わぬものと知った人々は絶望に沈む。「それなら最初から希望なんて見せてくれなくていい!」と、何とも残酷な人生の縮図に、鑑賞後は気分が晴れなかった。

 特筆すべきは、『七人の侍』の撮影時に開発され、『生きものの記録』で発展、ようやく今作で到達したという「マルチカム撮影法」。一つのシーンを3、4台と複数のカメラで撮影することで、カットをせず、演技を持続させる方法である。
 全編、ワンシチュエーションの今作は、ほとんどカットせず、ワンカットで演技をさせたらしい。(カットを割るのは、あくまで編集時)「え!?それなら『舞台』でいいじゃん」と、そうならないのが、やはり映像作家としての黒澤明監督。馬鹿囃子のシーンや終盤の一大スペクタクルなど、「映画的」としか思えない快感がある。どう考えても演劇舞台的題材が、何故か映画的になるというテクニックは、現行のロマン・ポランスキー監督作品とも重なる巨匠の凄みだなァと思う。
 舞台では、観客が自由にカット割りをする視点が、映画では監督が設定したカット割り、視点に置き換わる。実に今作は、クロサワが見た人間の愚かさと美しさが同居した長屋、つまり社会、人。我々観客は、人間をサンプルにして顕微鏡を覗く黒澤明監督の視点を見る、そんな映画がこの『どん底』なのだと思った。
茶一郎

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