ケンヤム

腑抜けども、悲しみの愛を見せろのケンヤムのレビュー・感想・評価

4.5
夫婦みたいに
家族みたいに
姉妹みたいに
女優みたいに


言い換えれば


普通に、普通に、普通に


自分を認識したいがあまり、私たちは時に「普通」を意識しすぎる。
「普通」という曖昧な概念を拠り所とした時、私たちは「私」のことが分からなくなる。
自己の絶対性を求めるがあまり、自分が分からなくなるというジレンマに苦しむ。
しかし、この映画の登場人物たちを見ていれば分かるように「私は代替不可能な唯一無二の存在である」というような自己の絶対性は幻想であるということがわかる。


母は、家族というものに憧れ、家族ごっこをする=誰かの母としての自己の絶対性を得たい。
姉は、みんなと違う絶対的な存在になりたいがあまり、女優という肩書きにすがりつく=世間的に成功者とされているものになることで、自己の絶対性を得たい。
兄は、過去のトラウマから逃れられない=妹に必要とされるものとしての自己の絶対性を得たい。
妹は、贖罪をすることに完全に囚われている=罪を抱えたものとしての、自己の絶対性を得たい。


というように、この映画に出てくる人々は自己の絶対性、言い変えると「私は何か」ということのジレンマに悩んでいる。
「私とは何か」ということを考えれば、考えるほど「私とは何者でもない」ということに気づく。
それは、人間の普遍的な苦悩であり、人間の最大の苦悩であり、人間が人間であることの証明でもある。
だから、この映画に出てくる人々は人間臭いし、醜い、そして愛おしい。


姉は常に女優であることを、自身のアイデンティティであると思い込んでいる。
しかし、それは全くの間違いで、女優であろうとすればするほど、世間から離れていき自己の輪郭が曖昧になっていく。
姉は、女優というクリエイティブな仕事をしているのにも関わらず「創る」ということをしなかった。
女優の世間的なイメージにすがりつくことしかしなかった。


妹は、常に姉に支配された存在であるが、彼女は、現実と闘う最大の武器を持っている。
それは、自身の不満や恐怖などのマイナスの感情全てを吐き出し、暴き出す、漫画という創作活動である。
「創る」という武器さえ持っていれば、どんな運命にも耐えられるのが人間であると思う。
なぜなら、周りで起こる不幸や、マイナスの出来事の全てが、創作の題材になりうるからだ。
だから、妹は率先して不幸を「覗く」
そして、全ての不幸を漫画に還元させてしまうのだ。


この映画の最後で、妹は姉に伝える。
「お姉ちゃん面白いよ!お姉ちゃんは自分の面白さに気づいてない!!」


姉は、その言葉によって殺されたのだと思う。
そして、手紙を破ることで、過去の自分を殺した。


そして、姉は妹に言う。
「あんた私のこと漫画にするんだったら、最後まで見なさい!
これからが面白いんだから!」


このセリフは、姉が自己の絶対性を獲得したことの証明でもある。
女優というイメージで武装せず、痛々しい自分を妹に晒し、世間に晒すという覚悟ができたのだ。


そこから始めるしかないのだと思う。
「私は代替可能な存在である」という自覚と、「私は何者でもないし、何者にもなり得ない」という自覚からしか何も始まらないのだと思う。
ケンヤム

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