一人称と三人称
息子のお宮参りで神主さんが祝詞を読んでいるのを聞いていて、
この儀式の意味は一体何なんだろうと考えてしまいました。
儀式の最中にひたすら思考を巡らしてみてようやく、
神社の意義とは僕ら一般人と神主さんとの間に神様という仮定を設け祝詞の効果の後ろ楯を得ることで、
実在する人間同士の円滑性を保つことにあるんだなと結論付けました。
父と子の和解をテーマにした、ティム・バートンの一風変わったファンタジーが、
ふとこんな過去の閃きを呼び覚ましてくれました。
虚言と真実と父と子と、
その隔たりを埋める反目と対話の繰り返しが呼んだ奇跡。
回想シーンの過去と、
大人な家庭事情が滲む現代とで、
それらが織り成す二項対立。
エキセントリックな体験談をファンタジックに再現するパートをティム・バートンの真髄とするならば、
日常のパートは数々の虚構を世に送り出してきた監督の希少な賜物。
日常シーンのホームドラマ感から、回想シーンの奇嬌さまでの振り幅の大きさはそのまま、
虚言を繰り返す父に対する息子の諦念の尺度でもあります。
その諦めの感情が迫り来る父の死期により見直される契機をもって、
現実が虚構を受け入れようと模索しはじめるところにこの映画の大きなハイライトがあるんです。
どう話すかではなく、
どのように聴きたいのかと、聴き手の重心に立ってみれば、
多少の脚色こそが説話の妙。
そんな、
脚色されたストーリにおいては暗黙のうちに人称の変化が許されうるのだと、
ここで邪推をしてみる。
その変化とはすなわち、
視点の位置関係。
創作によって一人称が三人称化する前提を話し手と聞き手とで共有できるかが、ビックフィッシュ(ほら話)の成立条件なのだとすれば、
それを受け入れられない息子とその父親との対立とは人称の対立構造でもある。
父子の仲違いを決定付けた冒頭の結婚式シーンはまさに、
人称と人称の主張の対立なんだろう。
その視点にたてば、ラストの感動的な親子のやり取りは、三人称の共有という折衷案なのだと分かります。
そして、僕が神社で感じたこともこれと同じ事なんだと、
ようやく話が繋がるというわけなんです。
第3の存在を仮定することで緊張の緩和をはかる。
円滑さのメカニズム。
見えないものを巧みに操る人間の面白さに触れ得たような気がしました。
さてさて、
虚構を得意とするティム・バートンが、虚構をどう位置付けているのかを、
僕なりに解釈できたところで、
本日はここまで。
感動的な人間讃歌に水を指す考察に、
神事中の無神論な僕の性格。
いや、ティム・バートンも許してくれるはずです、、、