Azuという名のブシェミ夫人

ウィズネイルと僕のAzuという名のブシェミ夫人のレビュー・感想・評価

ウィズネイルと僕(1988年製作の映画)
4.2
1969年ロンドン、売れない役者のウィズネイル(リチャード・E・グラント)と僕(ポール・マッギャン)。
貧乏で変わり映えのしない、どうしようもない毎日の暮らしに飽きた彼らは、ウィズネイルの叔父が所有する田舎の別荘で休暇を過ごす事に・・・。

素晴らしくロクデナシで、グダグダな二人。
自分達には才能が溢れていて、ただ『その時』が来ていないだけ、周りがなかなか自分たちに追いつかないだけ、なーんて思っちゃってる青臭さから抜け出せない男達。
上手く行かないのは傍から見たら自分たちのせいだって分かるんだけど、そういう時期ってあるんだよね。
実際、この話自体監督自身の半自伝的なものだというから。
(『君は石か?それともスポンジか?』が実際に監督が襲われた時に言われた言葉ってのがまた)
それでも、こんなどーしようもない男達が何だか愛おしくてたまらなくなるのは、監督自身がその時期の自分や今そういう時期にいる若者たちを愛のある温かい目で見ているからなのでしょう。
本人たちは大真面目に人生を生きているつもりなので、それがなんだかユーモラスであり、そして同時にホロ苦いのです。

“僕”は恐らくずっとウィズネイルに“憧れ”のようなものを抱いていたのではないかと。
ウィズネイルみたいになりたいと思っていた、割と普通(というか平均的)な感覚を持った青年だったのでしょう。
若き青春時代はそれで一緒にバカをやっていさえすれば良かった。
でも“大人”になるにつれて、それではやっていけないし、自分はウィズネイルとは違うのだと気づいてしまった。
そこで実際に二人の運命は違ってきたのでしょう。
それぞれの道を進んで行く二人の姿に長過ぎた青春時代の幕が下りるのを感じ、一抹の寂しさがこみ上げた。
どうか、ウィズネイルにも幸あれ。

こういう作品を観ていつも想うのは、男同士の友情が女の私には完全に理解できていないのだろうということ。
女同士にだってもちろん友情はあるけれど、なんだか太刀打ち出来ないような、言いようの無い羨望があるのです。
だからこそ、“あの時”の“あの僕達”を懐かしく想う全ての男性に観ていただいて、感想を聞いてみたいと思う作品です。