しろくま74

桐島、部活やめるってよのしろくま74のレビュー・感想・評価

桐島、部活やめるってよ(2012年製作の映画)
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『Pay It Forward』の思い出しレビューをしたら、連鎖的にこの映画が、心にぽっかり浮かんだ。

オスメントくん → シックス・センス → 幽霊 → ゾンビ → 生が死を追いこす → 価値の転倒 → 桐島。直接的に作用したイメージは、ゾンビと価値転倒。

私にとって『桐島』は、素敵なゾンビ映画でもある。

17歳の深夜。スティーブン・キングの『ペット・セメタリー』に最高のロマンティシズムを感じた私にとって、以来、ゾンビとは、生の過剰さが死を追いこすことの象徴となっている。

ちなみに幽霊は、生の過剰さが死を受け入れないことの象徴。このニュアンスの違いを、私は愛する。

思えば、青春期のあの煩悶(はんもん)は、生の過剰さが生を追いこそうとする現象だったのではないかと思う。だからこそ、あの時期の恋は、死へと向かおうとしたのではないか。

生の過剰さが生を追いこそうとするとき、人は死へと向かう。生の過剰さは、ロマンと言い換えてもいい。

物語の”喩(ゆ)”というものを正当に受けとれる人ならば、この映画は単なる青春という時期や、学校(スクールカースト)という場所にとどまらず、いつでも/どこでも、社会一般に広くあてはまる構図で出来ていると見てとるだろう。

桐島に象徴される価値体系があって、一種のヒエラルキーを作っている。社会とは、こうしたヒエラルキーが複層的に織りなす形で形成されていて、ひとりひとりのアイデンティティは、否応(いやおう)なしに、そのヒエラルキーに組み込まれいてる。

ある日、もしもその象徴が失われ、ひとつの価値体系が崩壊したなら、人間はどのようにふるまうのか。その価値の中に生きていた者、その価値の外に生きていた者。それぞれの群像。

けれど、私はその正当性を受けつけない。この、痛みを吸い込むような空気で構成されている映画が、青春を撮ったものでなくて、なんだというのだろう。

私が青春を終えたのは、30歳をちょっと過ぎた頃(青春期って、たぶん自分が思うより長いです)。29歳で息子が生まれ、妻とふたりで、あの小さく大きな命と向きあったことで、あれ、なんだろうこの感じは…となった。

子育ては、未来への祝福であると同時に、過去からの呪いと向き合うことでもある。祝福/呪いは、ともに生の過剰によってもたらされる。

その小さく大きな命は、私たち夫婦にあらゆることを求めると同時に、あらゆることを赦(ゆる)した。

ふと気がついたとき、生の過剰が生を追いこしていく衝動は消え、生の誕生と、死の受け入れが、等価になっていた。そのとき、生は生のままとなり、死は死のままとなった。

ラストの屋上のシーン。

あれを逆転劇などという感受性を、私は受けつけない。カーストの内部から見れば下位だった神木隆之介くんが、カーストの外部性をテコにして、カースト上位の東出昌大くんに逆転するというのは、結局は新たなカーストを生み出しているに過ぎない。

そんなに卑しい映画だろうか?

私には、生の過剰が死を追いこすゾンビ作品が、生の過剰が生を追いこす青春を喰っていくことで、生と死のバランスを回復する。そのようにしか見えない。

それは間違いなく、生の過剰さ(ロマン)が生を追いこそうとする、あの青春という呪いへのレクイエムなんだと思う。