ニトー

わたしを離さないでのニトーのネタバレレビュー・内容・結末

わたしを離さないで(2010年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

原作未読だし地上波での放送のためCM枠でだいぶカットされているだろうから何とも言えないのですが、それを抜きにしても少なくともこの映画はクローンの倫理の問題そのものを突き詰める気はあまりなさそうな気がする。クローンの問題、というのはオリジナルとの対面においてアイデンティティの揺らぎというものが前景化してくると思うのですが、この映画の人物たちはそのオリジナルとの対面を果たさないし、自らの運命について先刻承知済みなのである。

ルースと彼女のオリジナルの人物と思しき女性をめぐるエピソードにしても、それはアイデンティティの揺らぎをもたらすような演出は一切ないし、海岸でのセリフのかけあいにしても「オリジナル」はそのまま「母親(父親)」と代替可能なものでしかない。

つまるところ、まあ最後のシーンでも語られるとおりなのですが、この映画はそういう生命倫理の問題よりも運命論的な「生」そのものについての抒情詩に観える。ていうか、劇中でもマダムがはっきり口にしてますしおすし。

もちろん、オリジナルのパーツに過ぎないという設定はその運命論的「生」をどう受け入れるかという問題を強調する役割を果たしてはいるけれど、どちらに比重があるかと言えば圧倒的に後者であろう。そしてそのことは「オリジナル」である(というかコピーではない)観客=私たちにも感情移入が可能な程度には、クローンである彼らとの代替可能性が担保されている(彼らのオリジナルが明確に登場しないのはそのためだろうし、それによってコピー側である三人の主観が相対化されることなく維持され観客の感情移入を容易にさせる)。そして、その代替可能性というのは、ポストモダンの状況にあって我々は代替可能な人的リソースとしてみなされていることにほかならない。

だからこそ逆説的に「生」を想起させるシーンが排されていたり、精彩を欠いたものになっているのだろう。たとえばルースとトミーのセックスにしても、正常位ではなく騎乗位であり、しかもなおトミーは明らかに不快感(とまでは言わずとも早く終わって欲しいとかは考えているだろう)を示すしぐさを取っている(このためのガーフィールド)し、優位であるはずのルースの喘ぎ声にしてもどこか空虚である。それはのちの展開が・・・というかキャシーのモノローグ通りトミーとルース(とキャシー)はすれ違っているから。エロ本のくだりもそのすれ違い。

食事のシーンがないのもそうだろう。全くない、ということはない。だからこそ食べ物が出てくるとき・それを彼らが口にするときに「生」気を帯びるのでせう。あるいはその逆説として、キャシーが一人で白い空疎な部屋で壁に向かって食事をとるシーンの生気のなさ。あれに比べれば、彼女がダークチョコレートをハンナ(だったよね?)に差し入れするシーンのハンナの方が(ベッドに寝かされ、チョコを口にしなかったとしても)随分と「生」気を帯びているし、ルースがオレンジが口にするシーンもそう。
 

代替可能なコピー、というかそもそも代替物であるコピー(それは現代における我々そのもの)が、代替不可能な「生」としての真の「愛」をめぐる話になるのは必然なのでせう。最終的にはコピーもオリジナルも何ら変わらない、というある意味では真っ当な帰着に達する。

これを世界情勢に敷衍させてコピーをいわゆる第三世界とか、その血をすすって生きる資本主義国(オリジナル)というような読みもできるでしょうが、それはそれでむしろ矮小な気もしなくもない。
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