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あなたの目になりたいのzhenli13のレビュー・感想・評価

あなたの目になりたい(1943年製作の映画)
4.4
ドーミエ、ミレー、マネ、コロー、ピサロ、ドガ、ロダン、ルノワール、セザンヌの作品をカメラがサッシャ・ギトリらの語りとともにゆっくり回遊しながら映してゆく。それらは1871年の作品だという。
続いてユトリロ、ローランサン、ヴラマンク、デュフィ、マティス、マイヨールなど「現代」の作品は素早いパンとティルトで紹介される。普仏戦争に敗れた1871年と、公開当時ドイツ占領下にある1943年。政治で屈しても自国の芸術は屈することなく続くというギトリの祈念が表される。
一方で、自分がモデルとなった裸像をパトロンに見られることを恐れていたら、その絵と彼女を気に入って即購入即お手当を約束する富豪がパトロンの父であることを知りながらあっさり鞍替えする女性のエピソードがある。
自室にたくさんの美術品をコレクションしていたというギトリ、この映画に登場した絵画や彫刻も彼の所有だったのかも。ギトリが彫刻家を演じたのも美術作家への憧れもあるだろう。とはいえ芸術の名の下に金が動くことの現実も、ひいては「美しさ」とは何かについても軽やかに提示する。この要素が終盤にさりげなく深く響き、やがてダグラス・サークばりの第一級メロドラマとなり、泣いた。

その後半のメロドラマへとつなぐのが実際にあった灯火管制下でのシーン。暗闇の中サッシャ・ギトリとジュヌヴィエーヴ・ギトリの揃った足並みを懐中電灯で丸く照らし出す。暗闇の丸い光はショットを変えてさまざまな方向から登場する。ハンス・リヒターの実験映画のような幾何学的リズムに叙情が加わる。政治で屈してもそれを利用し新たな芸術を生み出そうという気概を感じる。このシーンで後半で視力を失うサッシャを介助するジュヌヴィエーヴとの関係をも示唆する。

数々の女性遍歴やこれまでの道徳観ゼロ喜劇からすると、いずれ視力を失う自分から若いジュヌヴィエーヴを遠ざけるためにわざとほかの女性との関係を仄めかすという筋書きは、些かサッシャの自己正当化めいたものを感じなくもない。
しかしさもはっきり見えているように堂々と劇場の歌手を出迎えるシーンで、カメラのピンがぼやけていくことで彼の目がこの女性の顔も判別できなくなりやがて暗闇しか映さなくなることを示す。このショットは残酷だ。対面しているなら正面ショットとなるはずが、斜めからアップを捉えている。さも観客の我々も見えなくなるかのように。ここから一気にシリアスなドラマとなる。
サッシャの失明を先に知らされたこの歌手が、彼への疑惑から嘲笑によって復讐したジュヌヴィエーヴを赦し理由を仄めかすシーンは、ルビッチ『陽気な中尉さん』におけるミリアム・ホプキンスへのクローデット・コルベールの献身を彷彿とさせる。シスターフッドではあるが、片方の女性には孤独が用意されている。

サッシャが失明直後に会った視覚障害者リハビリに携わる女性に「あなたの容姿は」と尋ねる。反対にどうだと思うか返され答えに窮するサッシャに彼女は「だから私は視覚障害者に従事するのです」と述べられ咄嗟に彼女の手にキスをする。女性の美醜に捉われてばかりいたことを謝罪するかのように。こういうの泣く。
と同時に、実生活でも色男だったであろうサッシャ・ギトリ自身の老いによる容姿への不安もあり、見えなくなる=自分の老いた姿を見ずに済むという願望もあったのではと想像する。

女中が落として傷つけたらしいドーミエの絵が架け替えられたことを知っても、自分の中には永遠にドーミエが刻まれているとサッシャは宣う。
目が見えなくなることで美しかったものを永遠に記憶する、見えなければ美醜に捉われずに人間を見ることができる、と簡単に言えるかどうかは別として、美術作品が目に見える美しさのみで成立しているのではないこと、それをつくる人が見ようとしているのは表面の美しさではなく対象の奥に潜む真理であることは、間違いないだろう。
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