カラン

鏡のカランのレビュー・感想・評価

(1974年製作の映画)
5.0
一度は観ておかれることをお勧めするが、最初は多分、楽しくない(爆)。いったん心の襞に隠してから、再会するタイミングを待たねばならないという不可解な映画なのだ。しかし一度心に留まると、その心象風景は忘れがたい。それは究極の癒しであり、どんなマイナスイオンでもぜったい届かないような、ねじれて、いじけて、哀しみに胸潰れた鉛色の心であっても、一番奥深いところにまで届く、そういう慰めなのだ。100年程度でしかない映画史で、死や宙吊りや限界や抑鬱を映像の《夢》で上回るという離れ業を達成したと言えるのは、せいぜい両手で数えるくらいなのだろうが、タルコフスキーがその1人となるのは間違いない。

移り気で、ツンデレの作風だが、その思慮深い態度でなんでも包んでくれ、洗い流してくれる奇跡の映像体験となる。《夢》とは、帰れない/帰りたくないオディュッセウスのように漂流driftを続けるためのものだ。鑑賞のコツは、喋っている「私」とはタルコフスキーのことであり、そのタルコフスキー本人は、もそっとしているが、苛立たないこと(謎)、映画を観ながら寝るのを恐れないこと(爆)でしょう。もそっと観ているうちに、映画のリズムにシンクロすると思います。それは夢のリズムで、ある種の人工楽園なのでしょう。


1. 鏡とは?

『鏡』の美しさはとめどない。比喩とは思えないような即自的an sichな美しさをもつ水。滴り続けて、ついには母と妻の目からもこぼれる。イマージュがイマージュを呼び込み、換喩的であれ隠喩的であれシームレスに私=今から過去、未来へ伸びていく想像的な時間・・・。今回はテーマを絞ることにして、《私に見えないもの》を、この『鏡』という作品がどう捉えたのかについて語ってみたい。

鏡は、見えないものを映し出す装置である。ナルシストの語源となったナルキッソスという青年は、池に映ったのが自分であるということに気づかず、恍惚として池の中にいる美青年に話しかけ続けた。ある日いよいよ感極まって身を乗り出したところ、池に落ちて溺死した。問題は自分が目にしているものに対する無知なのか? それとも死んだことなのか?ナルキッソスの神話は、どうも我知らず自分に溺れた美青年が溺死したという悲劇ばかりが強調されがちなのだが、芥川龍之介を持ち出すまでもなく、鏡は上手く使うならば至高の悦びを与えてくれるはずなのだ。生き延びる為の幻想の方法、それが鏡なのである。


2. 見えないものを見る=夢の映画

風は見えないが、映画は写す。草原を行く風を捉える。一陣の風は母の心にどんな波紋を作ったのだろうか?母を移り気にして、父以外の男へと想いを寄せるように仕向けることはなかっただろうか?「ママ」、母の想いはどこにあったのか。詩人の父は私たちを捨ててどこかに行ってしまった。「パパ」、父の想いはどこにあったのか。ロシアの命運に関するプーシキンの書簡を読まされたことを「私」は思い出す。「私」にその書簡を読ませたのは、誰だったのか?そもそもどうしてその記憶なのか?1935年の日付の書簡だった。では、1935年に何があったというのか。父が出て行った話しなのか、ロシアの固有の歴史的な立場の話しなのか?こういう展開になると、すぐに歴史的、社会的含意を膨らませようとする人がいる。例えば、スターリンの大粛清のような外的な事実が歴史的に大きなインパクトを与えたのは認めるし、タルコフスキーを含めて旧社会主義諸国の作家たちが苦労したのも認めるが、夢のシアターを、特別な夢の空間を、創出しようとする芸術にとっては、アドホックな事柄でしかないものを殊更に強調するのはやめよう。

フロイトが考えたように、昼間の思考が夢の中の人物や舞台の選択に関与するのは、例えばデビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』という《出逢い》の夢(この出逢いの夢は『インランドエンパイア』とも本作『鏡』とも違い、失敗するのだが。)を描いた作品でも同じだ。例えばマルホランドドライブという通りでカミーラが殺害されかけるという幻想で始まるが、これはダイアンのトラウマ的な原光景が繰り広げられるパーティが催された映画監督の家がその通りにあるからだ。マルホランドドライブそのものに意味があるわけではなく、トラウマ的原光景としてのパーティー会場を、場所として指し示す標識に過ぎない。またカウボーイ風の男も出てきて、映画監督のアダムがどこかの牧場でそのカウボーイに脅されるのも、それ自体は意味がない。誰も『マルホランドドライブ』でハリウッドの山の上を走る通りそのものが重要だとか、ハリウッドに対するウェスタンの復権がかけられているのだ、などとは言わないくせに、それが旧社会主義圏の作家の作品となると、とたんに、権力の構造と検閲による管理社会の話しを始めるのは変だ。『鏡』の「私」は言う。

「私は同じ夢をよく見る。夢は私を連れ戻そうとしているようだ。あの懐かしい大切な場所へと。私はそこで生まれた、40数年前、のりの効いた布地の上で。家に入ろうとすると必ず邪魔が・・・よく見る夢だから、もう慣れてしまった。しかし目覚めの予感がすると、計り知れない悦びがかすんでいってしまう。あの夢を見なくなる時もある。家も、林も出てこないと、気がめいってしまう。あの夢を待ち焦がれる。夢の中では子供に戻り、再び幸せを感じる。そこには未来が、可能性がまだある。」

この映画は、夢であり、不可能を可能にする夢なのだ。夢の中では、人物も、時間も、空間も、夢の規則に従うのであって、自我のルールにではない。だから、多少、不気味なところもあるし、意味や脈絡というエゴに奉仕するものは、どうしてもおざなりになる。夢なのだから!それは夢の掛け金なのだ。そこを怖がってはいけない。


3. 私たちを捨てた父の詩

この映画は『アンドレイ・ルブリョフ』のポスターが「私」の部屋に掛かっていることから分かるように、「タルコフスキー自身によるタルコフスキー」という構成だが、本人は映らないし、「私」の語り部は役者さんなのだが、タルコフスキーの父・アレクセイの書いた詩はタルコフスキー自身が朗読する。別に大して上手な朗読だとも思わないが、父⇄私⇄息子のリンクを創出する契機として重要なことである。

「逢瀬の一瞬一瞬を祭りのごとく祝った。世界は二人のもの。君は鳥の羽より軽やかに大胆に階段を駆け下り、僕を誘い入れた。濡れそぼるライラックの中を抜け。鏡の向こう、君の世界へと。」

父と母と私から、私と妻と息子へと、イマージュが心の中でさざ波のように連なっていき、今から、過去へと、未来へと伸びていく。この幻想は、スペイン内戦のニュースやソビエトという社会が本質的に抱え込んだ戦争の行軍の様子にまで伸びていくのだが、この辺りの時間の伸びしろは、ソクーロフの『エルミタージュ幻想』の「さよなら、ヨーロッパ」という時間感覚に繋がるのかもしれない。


4. 私が私を見る

暗い室内で銀色の鏡を見上げる子供がいる。父に去られて苦しい生活をしていた私たちは、母と移り住んだ田舎の村で裸足を灰色の泥で汚くしながら歩いた。母はある家の女にご主人を知っているとかいう四方山話をして、疑いの眼差しを向けられても女に折り入って頼みがあるという。足を拭いてあがるようにと言われて、母と私は室内に入った。母と女は私にしばらく待っているようにと言って、家の奥に消えていった。母は宝石を売ることで、私の履く靴も捻出できない家計の足しにしようというのだ。私は暗い室内に1人残り、壁の上の方にかかった鏡をじっと凝視する・・・そして、それを撮影する《私》。ほとんど児童性愛者が窃視するかのように、私は私を見つめる。ゆっくりと。たっぷりと。一方的に。だから、鏡面でカメラと小児の眼差しが交わることはない。

少年は身じろぎを堪えるかのように、ひたすら鏡の中の自分の眼差しを探す。それを「私」、この映画の登場人物でありながら、この映画の監督である「私」が画面に映しているのだが、ここでは私と私の眼差しが対峙することはない。例えば、ベルイマンの『ペルソナ』のように映画内世界に対しての外部や異次元を直接導入するような真似は、タルコフスキーはしないのである。『ペルソナ』ではエリザベートことリブ・ウルマンが振り向いて、カメラを、こちらを、私を、見る、のは、映画内世界と映画の外部世界を連結させようとする試みである。こういう「私」の壊乱によってエゴのまとまりや、物語の一貫性を粉砕してしまおうとするのは、ヌーベルバーグの作家たちに多いに愛され、インスピレーションの源泉となったベルイマンであれば、さもありなんであろう。しかし、タルコフスキーは違う。タルコフスキーは「私」の解体という20世紀の文学や芸術や思想と同期することなく、失われた時を求めて、自己救済に向かうという、きわめてナルシスティックな願望を強くもつ。映画で自分を救うのだ。メシアである。自分が自分の人生のメシアになるのだ。映画を撮り、自分で自分を救済する。この孤独。この勇気。芸術にすがりつく。映画しかないのだ。人生を感じる。生きること。映画を撮って生き残る。この映画の賭け金は、私、だ。映画が、これほどに人の生に深く関わるとは。「私」は父の詩を読む。

「私は予感を信じない、前兆も恐れない。
中傷も悪意も避けはしない。
この世に死は存在しない。
すべて不死、すべて不滅。
若者も年寄りも死を恐れる必要はない。
ただ現実と光あるのみ。
・・・
今、我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる。
もし私が手を挙げれば、
未来もここに現れる、
光も永久に残るだろう。」

「私」は幼い自分と邂逅し、母とうまく生きることのできなかった《私》、父に捨てられた《私》に出逢う。人間の孤独は、比較しようのない全く異なる人生を一度ずつしか生きられないことにある。しかしこの映画で《私》は人生の同胞を見つける。《私》の人生が、カメラの先で反復され、回帰する。私が、幼子の眼差しを介して、私に出逢うのだ。『惑星ソラリス』のスナウトが言うように、「人間に必要なのは鏡なのだ」。

私に見えないものとは、まさに私なのであるが、この映画は見えないものを見るための装置、つまり、鏡、である。そもそも父の声と同化していたこの映画は、私=息子の眼差しに伸びていき、イマージュがイマージュを呼び込み、連鎖し、幻想的な悦びのさざ波が現れては消えていく。母が宝石を売りに行った時に、暗い室内で鏡を覗き込む少年が、堪えるかのように、カメラと視線を合わせないのは、夢から醒めないためである。夢を味わい尽くすためである。この貪欲さに、一番慰められるのは、私、である。
カラン

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