ニューランド

見えない恐怖のニューランドのレビュー・感想・評価

見えない恐怖(1971年製作の映画)
3.5
言葉の定義はよく知らないが 、こういうのはホラーというより、テラーというのか。オードリー=Tヤングの演劇的厳密さ·濃密さに対して、単純に映画的とは云えまいが。 前半の、シャープで、知的·近代的に対象を見透すような広くクリアな図の締めと、イコン·メタファというより退行的·幼児的な執着、日常の習慣·生気が前者を跨ぐ個性的バランス、の特定のモノが流れ以上に眼前に出入りするマイナー世界が同居している、独自の味(多用されるロー·フォローの主調、敢えて嗅覚等は取り上げず·視覚の不自由を映画的利用·強調)は、同時期『わらの犬』や同じ作家による『10番街~』と同じく、イギリスの閉鎖的で一般的意識も取り残された·おぞましさ残存世界を描いてる、何本か纏まっての1本となってる(少し前の学園ものからの繋がりとも~『時計じ~』も含め)。そして、それらの不穏が続いた後の、落ち葉や音楽の過剰に謳い舞い流れる中でのカップル·フォローのリリシズム、中断あって不安掻き立てる·閉まった扉への無人格縦移動の緩やか接近持続は、ロイ=ヒルやキューブリックをも取り込んだようで、いつしかの自然な·のびやかで超越的な表現解放力への到達と感心する。
後半は、ヒロインの両手を前にかざしての逃げ惑いに·フィットの手持ち揺れや、助けを求めたジプシーらに囚われる反転、下半身ブーツ辺しか写してこなかった殺人鬼はジプシーの仲間かの明かし、ヒロインの音での自己存在主張や·犯人の名前入りホルダー奪還戻りや·音も遮らる湯とバスタブでの攻防·等、それぞれに処理鮮やか·色々場の疾走絡み変転が惹き付けるも、総花的にはなってくる。
それにしても、フライシャーもさることながら、M·ファローはこの時期、鬼才たちの問題作から皆が歌詞を口ずさむ好感作、そしてあまり女優としてのキャリアにメリットはないが·こんな骨も実もある?作品に飄々と出てたのだ。本作の事は知らなかったが、当時、トップのダナウェイ以上の映画への姿勢を、ちょっと怖く感じてた。特にその表情は、女性美·人間性、そして恐怖感をも、冷まし外れ、超えている。
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