カラン

美しき冒険旅行のカランのレビュー・感想・評価

美しき冒険旅行(1971年製作の映画)
5.0
オーストラリアの奥地の荒野を女の子が、丈の短いスカートとローファーで歩く。このいかにも都会から来たという風采のガールを演じるジェニー・アガターは劇中では14才の設定であるが、1969年8月の撮影開始時点では16才で、女のまろみを帯びているがまだ思春期のシャープな体つきで、大人の女と子供の境界線をどんどん歩き、くるくる泳ぐ。荒野wildernessと都会cityの対置に、未熟さと成熟が重ねられる。この制服女子が、一人で荒野を数か月サバイバルする通過儀礼、”walkabout”をしている最中のアボリジニの青年に出逢う。さらに対比に対比が重ね続けられる。制服女子には連れがいる、年の離れた弟は6才の設定。この弟は制服女子を困らせ、かつ、助ける。監督のニコラス・ローグの息子でリュック君。


テオ・アンゲロプロスの映画では、あるシーンを長回しで撮影しだし、ある場所に誰かがやってきて、去っていき、それでも続けるから、場所が主題であるかのように見えるショットがよく出てくる。出来事が生起する場に焦点が当たって、歴史の流れの中で名を持ちようがなかった堕胎された子供のような無名のものが、フィルムの中で存在し始め、定着するようになるのは、一つの生成の歴史が映し出されているかのようだよね。あるいは、ペドロ・コスタなんかは全編、長回しを荒く接続しただけで構成したような映画なわけだけど、こんくらべを監督としているかのようだよね。彼の映画も名もない存在が主題だけど、名もないものが存在を発火させるには時間がかかり、その時間の分だけ長回しするぞ、観客に見えないものが見えるようになるまで映し続けるぞって意気込みを感じるんだよね。

そんなアンゲロプロスやぺドロ・コスタとはまったく違って、このニコラス・ローグの『美しき冒険旅行』は、クロスカッティングしながら、どんどん直前のショットの対比を挟みこみ、最後までその挟みこみが続く。制服女子のスカートが短いのを主観ショットで見せて、中身が見えてしまわないかと思うか思わないかのところで、アボリジニの青年の草か皮をよって、トカゲの死体がぶら下がったふんどし(?)にかわる。また、女子が木に登って、白いももの付け根まで露になったところで、木の又を映し、ご丁寧に白木の皮に赤い切れ目が陰唇のように入っているかと思うと、ゾンビ化したパパの死体を映したりと、映像の意味作用を完了させない。音楽ですらそうだ。冒頭、ディジュリドゥが鳴りまくるが、持続しない。この映画はショットが持続しないし、感情的に反対のものですぐに補填してくる。この不連続が生み出す効果は、なんだ?

原作では、制服女子と弟は飛行機の事故で荒野をさすらうことになるという設定らしいのだが、ニコラス・ローグは父親が発作的に狂乱し、子供たちに発砲を始め、水鉄砲で打ち返している弟をさらうようにして何とか逃げ出したという意味不明な話に変換する。つまり原因不明のままストーリーを突き動かし、発端が不在のまま進行するのだ、この映画は。実は、夢オチとかになるんじゃないかと思わざるをえないほど、女子と弟のwalkaboutに意味を持たせることができない。女子は生き残り、都会の生活に戻ることができると希望を抱き、イギリス風のスノビズムを発揮して、誰が見ているわけでもないだろうに、衣服を整え、下着を改める。アボリジニに荒野で出逢い、青年のしなやかな強さと素朴さに触れ、もはや元居た世界には戻れないかもしれないと感じたならば、その上で青年が恐らく性交の儀礼のダンスを踊り始めたならば、この制服女子でも心ほだされるはずなのだが、この白人とアボリジニという典型的な対立は、ここでは止揚されないのである。弟のほうはといえば最初は難しかったサバイバルに不思議と適応して、青年の言葉も理解し始めたというのに、なぜ、女子と青年は世界を分かち合うことができないのか?

なぜニコラス・ローグは一番閉じるべき場所を、冷たく開かれたままにするのか。木にぶら下げられた死体は、女子と青年の世界が交わらないことを示している。なぜ、ニコラス・ローグはこの映画の冒頭からずっと続けてきた対比を総合しないのか? この映画はエンドクレジットの後でエピローグというのか、メッセージが入っている。Rien ne va plus.というフランス語である。これは賭け事で親がその賭けへの参加を打ち切る際に言うセリフで、「賭けはここまで」と訳されている。映画が終わる時とは、賭けへの参加が打ち切られる時であっても、賭けの結果が出る時、つまり意味作用の時ではないということか。

さっぱり分からないが、始まりも終わりもなく、結びつきようのないものを対置して、ただ対置の旅を続けてニコラス・ローグは悦んでいる。レフチョク効果とかいう第三項の発生にニコラス・ローグは抵抗しているのであろうか? 始まりがなければ、終わりもない。集合が完結しないのであれば、意味作用は発生しない。これは新しいモンタージュ理論なのであろうか。それともただの狂気なのであろうか。さっぱり分からないが、ラストの女子の瞳の空虚さが、茫洋と私の心にまで広がってきて、得体のしれない感動、意味作用不在の名もない感情に震えるしだいだ。
カラン

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