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ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

5.0
【ライブに参戦する】
※本レビューはnote創作大賞2025提出記事の素描です。
【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第0章:まえがき》▼
https://note.com/chebunbun/n/n8b8d6963ec5a

「ライブに参戦する」といった言い回しは近年、戦争をカジュアルなものにしてしまうことが批判され少しずつ忌避されるようになってきた。しかし、ウッドスティック・フェスティバルに関しては「参戦」と言った方がいいのかもしれない。

1969年8月15日から3日間、ニューヨーク州郊外のべセルで開催されたウッドストック・フェスティバルは想定を遥かに超える40万人もの来場者が押し掛けた。トイレも食料も不足し、雨により地面が泥濘み地獄絵図となった。国立教育テレビで音楽番組やドキュメンタリー映画を制作していたマイケル・ウォドレーは、マーティン・スコセッシ、ジョージ・ルーカス、セルマ・スクーンメイカーほか手持ちカメラでの撮影に長けたスタッフで固め、事前に各ミュージシャンから演奏時間を調べ上げ、出演順に演奏者を撮影する予定だったが、増えすぎた聴衆により車で会場にたどり着くことができず、ヘリコプターで現地入りし、アドリブのチームワークで一度きりの決定的瞬間を撮り続けることとなった。この事態には軍用ヘリも出動することとなったのだが、会場に集まったヒッピーたちは愛と平和、そして反戦を態度で示し続けた。まさしく、ここに集まった観客にとってウッドストック・フェスティバルは反戦のための参戦だったのだ。

音楽ドキュメンタリー史に名を刻むマスターピースこと『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』では、ウッドストック・フェスティバルの臨場感を十二分に伝えるべく、スプリット・スクリーンを主軸とした構成となっている。遠山純生「〈アメリカ映画史〉再構築: 社会的ドキュメンタリーからブロックバスターまで」によれば、アレサ・フランクリンの膨大なコンサート映像を同時に確認する方法を考えた際にスプリット・スクリーンに可能性を感じたとのこと。

ウォドレーが考えた三面の演出は、映画におけるスプリット・スクリーンの扱いの中でも異端である。映画ではほとんど見かけない一方で、ミュージックビデオ領域で見かけるような演出である。たとえば、テン・イヤーズ・アフター「I'm Going Home」にてアルヴィン・リーのギターパフォーマンスにフォーカスを当てる場面がある。中央の指捌きを強調するように左右に対象的な手つきのイメージを重ねている。類似の手法はサカナクション「ミュージック」のミュージックビデオでも確認できる。作曲に明け暮れている山口一郎の姿を中央に配置し、彼の心象世界を左右対称に重ねることで、中央のイメージが引き立つものとなっている。

近年では、スマートフォンの縦画面を用いたミュージックビデオでも活かされており、吉本おじさん「お返事まだカナ💦❓おじさん構文😁❗️ / 雨衣」では、おじさんからのDM画面を中央に配置し、バーチャル・シンガー雨衣の動きを左右に取り入れることで映像にリズムをもたらしている。

閑話休題、『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』のスプリット・スクリーンの扱いが映画というよりミュージックビデオに近いのは、各画面が物語を推進する役割を担っているわけではなく、複数の画面がひとつの事象をとらえようとしていることにある。たとえば、雨天により地面が泥濘む最悪なコンディションを楽しもうとする聴衆に注目した場面がある。左側ではスライディングしながら泥まみれになる個人の遊びが反復するように映し出される。右側では、聴衆がステージの外側で儀式的な音楽によってトランス状態となる様が映し出されている。ふたつのイメージは共通の音で繋げられ、雨天による聴衆の運動を多面的に捉えている。このようなアプローチは歌詞の世界観をイメージで表現するミュージックビデオと相性が良いのである。
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