カラン

太陽と月に背いてのカランのレビュー・感想・評価

太陽と月に背いて(1995年製作の映画)
4.0
ずっと若い頃に、渋谷のシアターコクーンで観た。初めて女の子とデートで映画館に行ったのだった。手とか握っちゃったりして〜、なんて考えていたが、後述する描写のせいで、初デートは緊迫し失敗に終わる。とはいえ、ディカプリオの美しさが溢れているジャケ写を見てください。当時、若い女の子たちがレオ様と呼んだのも頷ける美少年が清々しい顔で、波打ち際で前がかりになっている。美しいカットである。

しかし、真面目な話しをすると、この映画をアルチュール・ランボーという詩人のことを知りたいという人に、勧めるべきなのかどうかは分からない。何と言っても、ディカプリオがヴェルレーヌ役のディビッド・シューリスを嬉々とした得意顔で犯すのだが、その時のディカプリオとディビッド・シューリスの表情のコントラストが忘れられなくなって、ランボーとは頭の錯乱した変人なのかという印象しか残らないからだ。この映画はレオ様とディビッド・シューリスの体当りな演技を楽しむのがよいと思う。

ランボーを知りたい人は、詩集を読むのがいい。ランボーの詩は日本語でも、十分に味読できる。たくさん種類があるので、読み易いのを読めばよい。私自身は小林秀雄(岩波文庫)や堀口大學(新潮文庫)らの古いものが好きだが、粟津則雄(集英社文庫)の訳は清新で良いかもしれない。砂漠の表紙もいいし、村上龍の威勢のいい解説が付いている。ちくま学芸文庫の宇佐見斉の全集も、小林秀雄らの毒々しいランボーを知らない人たちには、読み易くていいのかもしれない。篠沢秀夫のもきれいな訳であるが、一人称が「わたし」だったり、「ぼく」だったりして、自我の輪郭がフラついた草食系みたいで気持ち悪い。鈴村和成は、アフリカからランボーが家族に送る「ざらざらした現実」に関する手紙の分析に拘っているが、詩の分析とは言えないし、ご自分で解説本まで書いているロラン・バルトの考えla mort de l'auteurによれば、作家は作品の前で死んでいるのではないのか。ランボーの詩をランボーの生活にどうしても結びつけようという発想は「作者の死」とは異なっているし、小林秀雄とは違う事が言いたかっただけのように思えてしまい、興ざめする。

詩集はハードルが高いという人は、これまた敷居が高いがゴダールの映画『気狂いピエロ』や、村上龍の小説『69』を読むと、受容の仕方が分かると思う。特に村上さんの元気いっぱいの小説はお勧めである。ただし妻夫木君の映画のほうは勧めない。他は、レオス・カラックスの映画も良いのかもしれないが、私は詳しくないので、filmoGAKUという人のレビューを読むとよいと思う。


いくつか詩を紹介しておく。この詩人のことを考えると、いつも思い出されるのは、次のセリフだ。

「もう何も話さないだろう」
Je ne parlerai rien.

「もう言葉はたくさんだ」
Plus de mots!

ランボーの作詩には、《生》が賭けられているのだと思う。話しながら、話すことで、《生》きること。そういう仕方で、話し-終わり、たかったのだろう。UAという歌手が『HORIZON』で、アンニュイに歌っているものとは逆だ。

「そうね もし 言葉なんてなければ
私たちずっと一緒にいれたよね
探してた永遠は時の影
空と海 溶け合う日を夢見る」


これは明らかにランボーの表現に影響を受けた歌詞だが、「言葉なんてなければ」などという条件は、ランボーにはない。本当はUAにもない。私たちにもない。私たちが、私たちであり、永遠に一緒にいたいねとか、離れ離れだねとか、思うのは言葉の中に私たちが生きているからである。

次の詩は15才か、16才かの少年が書いた詩である。時制の表現は全て未来時で書かれている。


『感覚』

「夏の青い夕べに 
俺は行こう
小径を抜けて
麦にちくちくやられ
刺草を踏みしめよう
夢うつつ、足の裏が冷んやりする
帽子もかぶらず、風に頭を吹かせておこう

もう何も話さない
もう何も考えない
でも、無限の愛が込み上げてくるのさ
俺は行こう
ジプシーみたいに
自然の中を
なんて楽しいんだ、こいつはまるで女連れ!」


この早熟の天才は、この詩の中で「もう話さない」と言っているが、この後二、三年経つ頃には、言葉と格闘し、母音に色彩まで見つけ、言葉の性質を変化させようとするのだが、「誰がこんなにも俺の言葉を不実にしたのか、それで俺は怠惰に身をやつすことになったんだ。」と自分で自分の言葉に呪詛を浴びせて、詩をやめてしまう。詩人が「話す」のをやめるのだ。

アルチュール・ランボーが、「言葉の錬金術」でもって、何をしようとしたのかは色々と意見があるのだろうが、たぶん彼は言語によって「女と一緒」にいるかのように楽しい気分を創り出そうとしたのだろう。しかし、語れども語れども、「青い夏の夕べ」の《感覚》は、「無限の愛が込み上げてくるだろう」未来の時は、やって来ない。いや、それは既にやって来ていたのかもしれない。次の『地獄の季節』の一節は有名で、色々な所で何度も引用されて来た。


「また見つかった
何が?
永遠が
海が太陽に溶けていた」


このように見者voyantとしてのランボーは、何度も永遠を見出し、「今なら俺は一つの魂と一つの体の中に、真理を所有していると言えるのだ」と頑張るのだが、見つけた言葉も、永遠も、感覚も、過ぎ去っていく。


「俺は自然を分かっているのか?
俺は自分を分かっているのか?
もう言葉はたくさんだ。
俺は死者を腹の中に埋葬した・・・叫びだ、太鼓だ、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス!白人どもがやって来る時のことなど分からない、俺は虚無に落ちていくんだろうさ。

渇きよ、飢えよ、叫びだ、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス!」


「もう、秋か!
だけど、永遠の太陽をなぜ惜しむのか、俺たちは聖なる光の探求に身を捧げると誓ったのではないのか、季節が変わると死んでいく連中からは離れてさ。」


アルチュール・ランボーは1854年に生まれ、家出を繰り返して、パリに出る。最初に挙げた『感覚』を書いたのはこの頃である。1871年にヴェルレーヌと出会い、旅に出る。同性愛的な関係で、ヨーロッパを回った。ブリュッセルでヴェルレーヌが狂乱して、ランボーに発砲する事件が起こり、ヴェルレーヌは投獄される。1873年のことで、ランボーはまだ18才だった。自宅に戻り「また見つかった。何が?永遠が。」が含まれている『地獄の季節』を書く。『地獄の季節』にはヴェルレーヌとの同性愛が、夫だの妻だのという言葉に変えられて、色濃く影響している。「狂気の処女」vierge folleとはヴェルレーヌのことだとされる。この後、ランボーはまた旅に出る。色々な職につく。1886年に『イリュミナシオン』が出版される。書いたのは1873年から1875年の間と言われているが、原稿をヴェルレーヌの勧めで手渡したきりであった。最後はアフリカで武器商人をして、乾いた大地の上を動き回っていたらしい。激しい痛みを足に覚える。フランスに戻り、治療を受けようとする。1891年5月末、右脚を切断する。手術後、安静にしていたのも1〜2ヶ月で、またアフリカに戻ろうとするも、体調を崩して、妹に看取られて死んだ。
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