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復讐するは我にありのMASHのレビュー・感想・評価

復讐するは我にあり(1979年製作の映画)
5.0
実際に起きた西口彰事件をモデルにしたノンフィクション・ノベルの実写化。その事件の描き方リアリティもさることながら、邦画では珍しく「キリスト教」を真剣に扱った映画としても素晴らしいものになっている。

彼はなぜ殺人を犯したのか。その根底には父親の存在がいた。父親はクリスチャンであり、それを厳にも強いていたのにもかかわらず、その父親はクリスチャンとしての"罪"を犯しているのだ。権力に屈し神を否定する言葉を言う、犬を酷い方法で殺す、そして厳の妻との関係など。ここで重要なのが、父親自身はいわゆる"悪いこと"をしたわけでないという所だ。戦争中という中では船を差し出したのはしょうがないことであるし、犬を殺したのは父親ではなく妻であり、そして何より妻との関係を拒んでいる。しかし主人公の中ではそれらのことは彼の価値観を徐々に崩壊させていったのだ。罪を犯している"人間"であるのにもかかわらず、まるで自分が"聖人"であるかのように振る舞う。彼はそこに人の持つ"醜さ"を見つけてしまった。

後半からはある一家とともに彼を描いていく。その一家は暴力やいわゆる不貞行為などの何かしらのキリスト教での罪を犯しており、そこに殺人という罪を犯した厳がやって来るのだ。ここで彼は彼らと自分の違いは何かを考えさせられる。ある意味人間らしい醜さを持った彼らと自分。程度の差は大きいけれども罪を犯しているという点では同じであるはず。彼らとの出会いはそれを彼に余計に強く自覚させてしまった。だから彼は父親のことを思い出しもう一度殺しを犯してしまったのだろう。

そもそもキリスト教には"原罪"という考えがある。人は生きている間に罪を犯していて、それをイエス・キリストが代わりに罪を負ってくれているという考え方。しかし、人間は全て"罪"を犯しているのに"罰"を受けるのはその一部だけ。そこに厳は矛盾を感じてしまい、凶行に走っていたのだ。『復讐するは我にあり』というのは人を裁けるのは人ではなく神であるという意味である。しかし現実では神は裁いてなどくれない。罪を犯し続ける人間はほとんどが野放しになっている。たまたま彼が罰を受けたにすぎないとも言える。そういう意味では殺人を犯した彼と我々との間に違いなんてものはないのかもしれない。
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