シゲーニョ

ザ・ファイターのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ザ・ファイター(2010年製作の映画)
3.9
大抵のボクシング映画には「定型」がある。

例えば「ロッキー(76年)」なら負け犬のリベンジ、「チャンプ(79年)」ならダメ親父と息子の絆、「レイジング・ブル(80年)」ならチョット困った性格の男の贖罪、「シンデレラマン(05年)」なら愚直とも言える男の生き方…。
物語の末路は別にして、ボクシングを通して、己の「成長・成熟・衰退」がキーワードになっている。

だが本作「ザ・ファイター(10年)」は、それらいずれにも属さない。

実在のボクサーをモデルにし、物語の基本が実話である分、仕方ないのかもしれないが、いわゆるヒロイックなサクセス・ストーリー、あるいは破滅的な結末を期待すると、拍子抜けの感じを覚えるだろう。
ボクシング映画に付き物の「リング上の戦い」から得られる昂揚感が希薄なのだ。

なぜなら主人公の戦う相手・敵が、自分の「家族」だから…。
そしてその家族が、実は本作の「主役」と言えるだろう。

本作は有り体に言えば、90年代に活躍したプロボクサー、ミッキー・ウォードとその異父兄、ディッキー・エクランドの実話をベースに、監督デヴィッド・O・ラッセル、マーク・ウォールバーグ製作・主演で、一度はボクサーとしての大成を諦めるも、自分の“あるべき姿”を模索しながら、紆余曲折を経て、世界の頂点を目指すプロボクサーを描いたヒューマンドラマだ。

兄ディッキー(クリスチャン・ベール)は元ボクサーで、15年程前に、あの世界王座5階級制覇を達成したシュガー・レイ・レナードから1度だけダウンを奪ったことを人生の支えにしている。(実はスリップダウンだったと陰口を叩くヤツらもいる…)

ミッキー(マーク・ウォールバーグ)は兄に憧れ、兄を乗り越えようとするが、ディッキーは只今絶賛“クラック中毒”。

この兄弟二人の関係、その内面を端的に顕しているのが、オープニングのタイトルシーケンスだ。

自分をネタにしたケーブルTV局HBOのドキュメンタリー取材で、地元ローウェルを得意満面で練り歩くディッキー。
ヤク中だからか終始ニヤニヤ、足下フラフラながらも、会う人、会う人、まるで全員知り合いかのように挨拶をし、握手やサインを求められる。日雇い風のアンちゃん、顔に深い皺が刻まれた老人、ローティーンの不良娘、黒人、アジア系、ドラッグの売人…。見も知らぬ女の子からキスされれば、「昔ヤったオンナだっけ…(笑)」と嘯く。

二人が暮らすローウェルはマサチューセッツ州の北西部、ボストン近郊にある人口10万人ほどの町で、19世紀中頃にはアメリカ最大の繊維工業の中心地となり、多くの移民や出稼ぎ労働者を受け入れたが、その後、新規技術の導入や整備などの取り組みに失敗し、徐々に衰退。1960年代にはほとんどの繊維工場が閉鎖し、今では通りは寂れ、ブルーカラーたちの声には怒りと自嘲が混じり、町の空気からは疲弊の色が濃く滲み出ている。

だからこそ、町の人々にとって、ディッキーは今でも心の拠り所になる“英雄”なのだ。

当然、町のみんなが話題にするのは、レナード戦のことばかり。
サインするのは当時の告知ポスター、ディッキー本人も頼まれもしないのに、ヤク中のマブダチ相手にレナードをダウンさせたシーンの再現をやってみせてご満悦状態…。

そんな「ローウェルの誇り」という大昔の栄光でチヤホヤされる兄を、ミッキーは「羨ましい」と思ったのか、「情けない」と感じたのか、複雑な表情を浮かべながら、ただ見つめるだけだ。

そんなシーンのバックで流れるのが、ザ・ヘビーのファンキーでグルーヴィな「How You Like Me Now(09年)」。
「お前が知っているようにオレはろくでなしだった/オレは悩んで、自分の中に本当の愛を見つけた/でもお前に確かめて欲しいんだ/聞かせてくれ、今のオレをどう思っている?」

ディッキーは、実は傲慢で欲望に弱く、ドラッグで身を持ち崩し、転落の人生を歩んでいる真っ最中。
その実態はまともに働きもせず難民コミュニティに入り浸り、麻薬でラリって遊び呆ける中年ジャンキーで、弟のトレーナーであるクセに、試合日が間近に迫ったミッキーの練習をサボることもしばしば。

ちなみに、このヤク中描写が完璧で(笑)、カンボジア難民の大所帯家族と、ボロいネルシャツ着た歯欠けの薬漬け野郎たちに囲まれながら、コカインを火で炙り、その煙をボーっと上目使いで吸うクリスチャン・ベールの表情は、13キロという大幅な減量を行い、歯並びを変え、髪の毛を抜くといった驚異の役作りと併せて、マジにホンモノやっているんじゃないかと疑いたくなるくらいだ(あと、どうでもいいことだが、落ち着かない時は、大体、左手で股間を掻いているか、チ○コを握っている…!!)

まぁ、本作の製作総指揮に、ヤク中映画の傑作「レクイエム・フォー・ドリーム(00年)」の監督ダーレン・アロノフスキーが参加していることも大きな要因かもしれない…(笑)。

閑話休題…

そんな社会不適合者にも関わらず、ディッキーは弟ミッキーに対して、「オレ無しで何が出来る!?」と威張り散らす。自分が足を引っ張っているなんて露にも思っていないのだ。

もう一つ、ミッキーの障害と言えるのが母親の存在だ。

母アリス(メリッサ・レオ)はミッキーのマネージメントをしているが、それはボンクラ一家において、ミッキーが唯一の「金づる」だからに他ならない。しかも目先の金が重要で、ミッキーの将来など案ずることなく、ファイトマネー欲しさにロクでもない対戦相手をマッチメイクするばかり。試合に敗れればコミッショナーに騙されたと偽り、次はきちんと試合を組むと言って、全く気にも留めない。

要は、息子はいつまでも自分の支配下にいると思っていて、溺愛しつつも、無自覚ながら息子の才能、その芽を摘んでしまうし、束縛心も人一倍強いので、息子の自立を阻んでしまうのだ。

このマフィアのドンみたいな腹黒い母ちゃんの周りには、ディッキーとタネ違いの7人姉妹がいつも、コバンザメのようにくっ付いているのだが、母親の言うことには常に右へ倣えで「Yes, ma'am!」、母親に反論する輩がいたりすれば「Fxxk」「Bitch」「Skank(尻軽女)」と罵声を浴びせる。

しかも全員いかず後家で、一軒家に同居していて、ミッキーの稼ぎに群がる寄生虫。

その佇まいもみんな、「TARGET(日本で言えばファッションセンターしまむら)」で買ったようなジージャンかトレーナー、髪型も前髪立てたレイヤーの入ったセミロングか、微妙なワッフルウェーブで、80年代のロック女性シンガーのキム・ワイルドかパット・ベネター、または「ダダーン!ボヨヨン♡」で一斉を風靡した女子レスラーのレジー・ベネットにそっくり(笑)。

(ピンとこない方がいらっしゃいましたら、「モンスター(03年)」でシャーリーズ・セロンが10キロ体重増やし、特殊メイクで挑んだ連続殺人犯のオバハンの顔を思い浮かべて下さい…汗)

そしてミッキーに一度離婚歴があり、またディッキーの子供だけは一緒に住んでいるのに、その母親の姿が不在なのも重要なポイントで、これは母アリスと姉妹たちが、自分たちの言いなりにならない女性を袋叩きにして追い出したということを想像させられる。それぐらい重苦しい支配欲の固まりだということだ。

息子たちを殴り合いの場に放り投げて生計を立てる母親。
過去に一瞬だけスポットが当たったジャンキーの兄。
そして、その一瞬の過去の栄光に全員ですがり続ける一家。

ミッキーは家族みんなが自分の肩にのしかかり、死にそうな戦いを続けながらも、彼らの言うなりになるしかない。
こんなイラつく家族を切り捨てられないのがミッキーなのだ。駄目なアニキも母親も姉妹も傷つけたくない。

では、なぜ、そんな風に思ってしまうのか。
ここから勝手な推察だが、みんなの期待に応えること、言われるままでいることが、自分が唯一“生きていることを実感できる証”だとミッキーは思っているのだろう。

これまでに、対戦相手の踏み台や噛ませ犬になることを強要され、それを自覚して試合したことを認めているし、どう考えても不理なマッチメイクの試合に敗れれば、「期待に応えられなかった」と自分ひとりを責める…。

もちろん、町の英雄である兄ディッキーに憧れ、そんなアニキに近づきたい、アニキを超えたいという希望もあったはずだ。

ミッキーは自分を認めて欲しいのだ…。

そんな彼を立ち直らせようと考え、モンスター的な家族の前で身体を張ったのが、付き合い始めて間もない恋人シャーリーン(エイミー・アダムス)。
ミッキーを愛するがゆえ、そんな家族からの自立を促すシャーリーンに説得されたミッキーは、兄や母に決別、シャーリーンと共に新しい人生を始める覚悟をする。

しかし、ネタバレで恐縮だが、ディッキーを取材していた番組が、実は「Crack in America(アメリカの薬物中毒の実態)」というドキュメンタリーだったことが判明し、その放送によって、ミッキーの家族がすがり付いていた「ローウェルの誇り」という虚像が一夜にして崩れることになる。

テレビを観ていて発狂寸前の母親アリスが、電話口でミッキーに「テレビ局が番組のためにディッキーを薬漬けにしたのよ」とあたかもヤラセ、他者に理由をつけて責任逃れをしようとすると、ミッキーは「いや、アレが現実だろ…」と返答する。

そうと分かっていて見て見ぬふりをしたオレら家族の問題だと…。

最悪の夜が過ぎ去ろうとしていた翌朝、ミッキーは洗礼の時を告げる、教会の鐘の音で目覚める。
これはキリスト教の視点から読み解けば、「再生」を暗喩しているシーンだ(ミッキーはアイリッシュなのでカトリック)。

ミッキーはその鐘の音を聞くや、ベッドから起き上がり、しばらく触っていなかったボクシンググローブを握りしめる。

そして、夢・人生・家族の絆、いろんな意味を含んだ「再起」を賭けてのトレーニングを開始するミッキーのモンタージュが映し出され、そのバックに流れる曲が、レッド・チリ・ホット・ペッパーズの「Strip My Mind(05年)」。

「僕は自分を見失った/(中略)僕の心を裸にしないで/大切なものを残しておいて」

ボクサーのタイプには2種類いると云われている。
相手と距離をおいてフットワークで戦う、アウト・ボクシング系。
もう一つは、近距離でのインファイト、相手の懐に突っ込んでボコボコ殴るのを好むファイター系。

本作のタイトル「ザ・ファイター」とは「闘士・戦士」という意味ではなく、どん底一家の心奥に入り込んで、殴り殴られる「ファイター系」のミッキーを形容しているのであろう。

自分の家族の奇異さに気付き、アタマと心にパンチをひたすら浴びながらも、ミッキーはなんとか妥協点を見つけようとする。

終盤、ヤクがすっかり抜けてトレーナーに復帰したディッキーに向かって、ミッキーが「You are My Hero(アニキはヒーローだ)」と言うと、ディッキーは「I was, I was(だった…だろ)」とイキに返す。これは過去から脱却し、「再生」したことを象徴する名シーンだ。

ただし、本作のクライマックス、ミッキーが挑むWBU世界ウェルター級王座戦の入場シーン。
セコンドとしてリングへと向かうディッキーが、弟の入場曲、ホワイトスネークの「Here I Go Again(82年)」に合わせて、その一節を鼻歌で口ずさむ。

「また独りで行こう/オレはこの道しか知らないから/流れ者のように歩き続けるのが運命/オレは心に決めた/独りで歩いて行くことを」

たぶん、ミッキーの思いに一時、心絆されたとしても、ディッキーの怠惰で誘惑に弱い性格は一生変わらないのだろう。
なのでラストシーン、ミッキーが浮かべた苦笑いには、「これがうちの家族だから…」という、諦めにも似た感情が見えたような気がしてしまうのだ。

非常に難儀なハナシだが、実話なのだから仕方がない(笑)。

生まれ育った場所からはそうそう抜け出せない。
簡単に切り捨てたり、切り捨てられたり出来るものではない。
どんなに迷惑かけられても、家族は特別なのだと言いたいのかもしれない。

他人の人生を誰もが頷くように描くのではなく、“他人の人生はその人にしか分からない”とキッパリと言い切ったような作風・ストーリーテリングが強く印象に残った…。


最後に…

本作「ザ・ファイター」は、
マーク・ウォールバーグのミッキー・ウォードに対する憧れから始まった企画、ライフワークと言っても過言ではない。

本作の舞台ローウェルに近いボストンの貧乏子沢山の一家に生まれ、アイリッシュの血を引き、若い頃は暴れん坊で、他人を失明するまで暴行するわ、麻薬売買で豪遊するわの、シャレにならない荒れた青春を送り、兄であるアイドル歌手ドニーに誘われ、芸能界入り。これだけ共通点があれば、ウォールバーグが本作の映像化を熱望するのも納得だろう。

映画化権を手に入れたマーク・ウォールバーグは先ず、マーティン・スコセッシに監督を依頼するもオファーを蹴られ、次にダーレン・アロノフスキーにメガホンを委ねるが、「ロボコップ」のリブート企画にアロノフスキーが興味を持ったため降板。ウォールバーグはその後釜として、過去一緒に仕事をしたデヴィッド・O・ラッセルに白羽の矢を立てる。

デヴィッド・O・ラッセルは今では名匠と謳われているが、かつて「ハリウッドで一番キレやすい男」と呼ばれていた人。
「スリー・キングス(99年)」ではエキストラに横暴な態度を見せ、それを諫めたジョージ・クルーニーと大ゲンカ。
「ハッカビーズ(04年)」では、撮影現場で出演者のベテラン女優リリー・トムリンに楯突かれて、セットを滅茶苦茶にしながらキレまくり、そのドン引き動画がネットで拡散。各所から非難の声が飛び交い、結果ハリウッドから干され、そのキャリアがストップしてしまった。

干されること6年。

そんなラッセルに復帰のチャンスを与えたのが、「スリー・キングス」で意気投合したウォルバーグだったのである。
ウォルバーグがオファーしたその真意は分からないが、自制心の欠如によって壊してしまった自分の人生を「再構築」しようともがくディッキーたちに、ラッセルほど寄り添える監督は、もう他にいなかったのだと思う。

しかし噂話ながら、当初ウォルバーグは問題児のラッセルに懸念を抱いていたらしく、クリスチャン・ベールが「ラッセルと、もう一度やってみようぜ!アイツ、オモロいから!」と後押ししたことが大きいらしい。

では、なぜクリスチャン・ベールは助言したのか。

それは直近に出演した「ターミネーター4(09年)」撮影時、監督マック・Gを恫喝している動画がネットに流出し、ラッセル同様に評判をゴッソリ落とした経験を、クリスチャン・ベールがしたばかりだったからに他ならない…(爆)



追補

上記レビューで書いた、終盤で流れるホワイトスネークの曲「Here I Go Again」について、ある友人から「あれは、ディッキーが過去を猛省して、これからはミッキーと共に真面目に“ボクシング道”を歩むと、改心したことを意味しているのでは?」と指摘を受けた。

たしかに、その意味合いを含んでいるようにも感じられる。
何せ、ミッキー、家族、そしてディッキー自身の「再起」を賭けた世界戦の入場曲だし…。

しかし、ホワイトスネークのボーカル、デビッド・カヴァデール様の元ファン(笑)の自分から意見させてもらえば、歌詞をよ〜く聴いてみると、この曲に込められた想いが見えてくる。

先ず、Bメロ辺りの歌詞「Tho' I keep Searching for an Answer(答えを探し続けてきたけど)/I Never Seem to Find What I'm Looking for(探していたものは、決して見つかりはしなかった)」

それを受けて、サビでは「An' Here I Go Again on My Own(でも、俺は再び独りでここに立つ)/An' Here I Go Again on My Own(かつて知っている、ただ一つの道を進むんだ)/Like a Drifter I was Born to Walk Alone(流れ者のように、独りさすらう宿命だけど)/An' I've Made Up My Mind(もう腹は決めているのさ)/I ain't Wasting No More Time(これ以上、時間を無駄にはしない)」と歌い上げている。

ポイントは「再び独りで、かつて知ったただ一つの道を、流れ者のように進むことを決めた」というところ。

これを劇中のディッキーの気持ちに、自分なりに置き換えてみると、「今はミッキーのために、家族のために、もう一度、ボクシング道を極めるけれど、今後はそん時の状況・気分次第で、いつものように独りで勝手にやっていくよ」と聴こえてしまう。

それに追い討ちをかけたのが、Cメロの歌詞。
「But, Here I Go again(でも またやっちまうんだ)/Here I Go Again(同じことの繰り返し)/Here I Go(でもそっから前へと進むのさ)」

この歌を昔から知っている自分からすれば、ディッキーは、コカインや窃盗といった悪行に手を出さないとしても、今後、また己の欲望に従うまま、なんかしでかすことを予想・自覚していると思えてしまうのだ。

もちろん、本篇ではCメロは流れない。
しかし、ディッキーは鼻歌で誦んずるぐらいなのだから、曲の意味は判っているはずだ(笑)。

このホワイトスネークの「Here I Go Again」は劇中で、実はこの入場シーン以外にも使用されている。
それは、序盤、ミッキーが別れた妻の家で暮らす、最愛の一人娘に会いにいくシーン。

ミッキーのカーステから聴こえてくるのが、この「Here I Go Again」。

ミッキーはそこで、来たるワナビー戦に勝利して大金を稼ぎ、新居に引っ越して娘と二人で希望に満ちた生活をすることを誓う。
しかし、そのミッキーの願いは、いつものようにダメ兄貴と母親が足を引っ張り、脆くも崩れ去る…。

まさにCメロの「また、やっちまった…」通りだ(!!)

この曲のチョイスをしたのが、監督のデヴィッド・O・ラッセルなのか、作曲・音楽監修のマイケル・ブルックなのか判らないが、「Here I Go Again」の歌詞に込められた意味をちゃんと理解していると、勝手ながら思った次第である。