垂直落下式サミング

太陽を盗んだ男の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

太陽を盗んだ男(1979年製作の映画)
5.0
この映画を知ったのは、江頭2:50さんの好きな映画のひとつに挙げられているのをまとめブログで読んだから。軟弱ネット世代である。もともと、当時から評価は高かったようだが、この映画、古びるどころか今見ても、いや今でこそ超面白い!
ストーリーは、中学校の理科教師が原子力発電所から液体プルトニウムを強奪し、アパートの自室でハンドメイド原子爆弾を完成させて、それによって日本政府を脅迫するというもの。濃厚なアナキズム溢れる内容だ。
そんなヤボったい社会派ネタなんかと敬遠するのはもったいないですよと思う反面、この映画が「核」というものを物語の機能のなかに組み込み、その性質をリアルなものとして遠慮なく描いてしまっていることには、どうしても怖じ気づいてしまう。
日本という国が、二発の原子爆弾投下による敗戦を歴史的なトラウマとして抱えているのは、私も国民として共有しているつもりだし、実際に福島第一原発でタイヘンなことが起こっちゃった後なわけだ。これを娯楽のネタにするには些か不謹慎な題材かもしれないと、さしもの無頓着な私も「原発」「原子爆弾」などについて話すときには、多方面に気を遣わなければならないと気後れしてしまうのに、この映画は誰かを気遣うなんてダサいマネはしない。声のボリュームを落とさない。絶対に。うるさいくらいに主張する。
声高すぎる社会派は不謹慎に見えるという感性は、今も昔も多分に正常であるのだろうが、そんななかにおいて『太陽を盗んだ男』という巨大な爆弾が、当時の飛ぶ鳥を落とすような大アイドルだったジュリーのファンを含む広い観客層に投げ込まれたことこそ、日本映画史的に大変意義深い出来事だったと思う。キワモノのカルトなどではなく超王道娯楽大作として鑑賞していただきたい。
作り手の意図がどうであれ、この映画が意味を持つのは、圧倒的に面白いということだ。もうじゅうぶんに語り尽くされた有名な映画だが、映画雑誌が取り上げたり、江頭氏のような有名人がタイトルを挙げなくとも、誰かがblogだのSNSだのに「みたよ」と書き込めばそれだけで作品は生き続ける。まさしく、今現在も生まれ続ける核廃棄物のごとく、その痕跡はこの世に残り続ける。
メタファーをメタファーとして送り届けるのが映画の器であるが、「プルトニウム」という物質は、根拠のない単なる戯画化に終わらない、実感を手掴みにするような切実さを有する。不発の武器をぶら下げて、不感症の大都会を相手にただひとり戦い抜かねばならない男の歩み。いつまでも優しさに甘えていてはいけない。生命を空回りさせてでも生き抜かなければならない。だからどうした。勝手にさせてもらうぜ。そう悟った男の顔は、感動的なまでにふてぶてしい。
この映画は上映時間という枠を越え、映画をみたという体験そのものが実人生に肉薄し影響を与えていく、そんな生々しく危険な生命力を持っている。それに取りつかれれば、たとえ行き着く先に死が待っていようとも、我々はともに歩むしかないのである。
また、この映画が愉快なのは、表現は大衆に投げ掛け波及してこそ意味を持つのだと、お賢いインテリ層に盛大に喧嘩を売っているところ。
これまで、いや今までも、対象と方法を注意深く限定し客層を絞ることで、辛うじて表現を成り立たせてきたのが、この国の社会派たちだ。
『太陽を盗んだ男』は、あれこれトレーニング法を模索し体を鍛えフォームを作り上げてきた強化選手たちが作る横並びに、「左から失礼」と爽やかに挨拶を交わし、生まれ持ったままの脚力のみでもって猛然と走り抜けてゆく。原子爆弾を手掴みにしたまま独走するジュリーの会心の笑みが見えるようだ。
受け手の顔色をうかがっているようでは、このスプリントには勝てない。体力が足らないよ、君たち。