影武者の作品情報・感想・評価 - 5ページ目

影武者1980年製作の映画)

製作国:

上映時間:179分

3.7

「影武者」に投稿された感想・評価

楽しかった。

今はこれ以上なにもいうまい。
黒澤明の映画を見ると、映像として完結している作品を言語化することに抵抗を覚える。
言葉として補足することが野暮に思える。
KUBO

KUBOの感想・評価

4.0
今日は黒澤明監督作品「影武者」のデジタルリマスター版上映会に行ってきました。

劇場公開時以来の鑑賞。1980年の公開ですから、当時私も20歳! 今の息子たちと同じくらいですが、当時の私の感想は「黒澤明って、巨匠っていうから見てみたけど、ゆっくりしてて退屈な時代劇だったなぁ」でした。1960年生まれの私にとっては、それ以前の黒澤作品は「歴史」で、リアルタイムでの体験はこの「影武者」からだったのです。

37年ぶりの鑑賞で感じたことは、CGのない時代に描かれた「長篠の戦い」の圧倒的物量。数百もの馬とそれ以上のエキストラを使った、あり得ない規模の合戦シーンには、改めて圧倒される。予算はコッポラやルーカスが工面したらしいが、今では絶対できない規模の映画だろう。

そして仲代達也の演技は、時代劇ではあるがシェイクスピアを見ているように感じた。この役は元々、勝新太郎で撮影が始まったが、黒澤と上手くいかず仲代に交代した経緯がある。だが勝新であの演技ができたかというと、?だ。仲代だったからこその「影武者」であり、カンヌでのグランプリだったのではないだろうか?

上映終了後の舞台挨拶では、勝新との交代にまつわる秘話、「長篠の戦い」撮影時のあまりの過酷さに俳優陣がストライキを起こした話など、撮影当時のたいへん貴重なお話が聞けた。

特に強調されていたのが「『山は動かん!』今は世界的に難しい時代になっているが、動かなければ戦場になることはない。微妙くも本作は現代へのメッセージになってはいまいか?」という仲代さんの言葉。戦中を生きた84歳からのお言葉、胸に響いた。「海辺のリア」見に行かなきゃ。
「影武者」とは「演じること」である。この映画では人前で演じるという行為がどのような意味を持ちうるか、あらゆる状況において実験されている。
とにかく長回しが多い、そのシーン長い意味がよくわからんみたいな、、、
だから3時間もある。
話としては面白いし影武者の心理描写も演技も素晴らしい!!というかそこもっとメインで掘ってほしかったけど、そこだけじゃない戦やそれにおける作戦やらの話が詰め込まれすぎてるし、なのにアクションも少ない。
ムダに長いだけに影武者の存在と心理が散ってるなと感じた。ちょい疲れた。
乱に引き続き、
二本立て続けに
幽霊みたいに仲代達也の顔がメイクで白くなって行く
カラー作品の黒澤明監督作品を見た。
期待でおかしくなりそうになりながら、観に行きカックンし、「乱」でまたカックン。と黒澤が離れていったはじまり。
これ以来、カンヌも信じられなくなったなあ。
外人が観て、面白い作品は違う視点なのかな。
勝さんが降ろされた時点で、こうなる予感は有ったけれど、脚本もワビサビの世界に行ってしまってる感じだった。
作風が初期の初期に戻ったのかもしれないけれど、求めてるものと作りたいものが違うと悲しい。

1980/5月頃 満員の映画館で
てぃだ

てぃだの感想・評価

2.6
次回作、『乱』の準備作品とのことだけど何となく納得。勝さんの退陣劇とか映画の中身よりも裏話の方が断然面白くなっちゃった感じがちょっとかわいそう。『乱』の時も思ったけどクロサワ映画はカラーになるとはっきり言ってつまらなくなるなぁ。色使いはとてもよかったと思う。
武田信玄の影武者を描いた黒澤明監督作品。仲代達矢演じる主人公が機転を利かせながら敵味方を欺く場面はダイナミックな合戦シーンを上回る面白さ。信玄と影武者の対面から始まるシナリオがクロサワらしさを感じさせる。武田家滅亡を儚くも美しい映像で見せる手法は『乱』へと繋がる。
茶一郎

茶一郎の感想・評価

3.7
言わずと知れた戦国時代最強の武将の一人、武田信玄。その信玄が三人いる。画面中央、上段に座る信玄(仲代達矢)、画面左の信玄(信廉)(山崎努)、そして画面右の信玄(仲代達矢の一人二役)。一つの画面に三人の武田信玄。
 そんな奇妙な冒頭から、画面一杯にタイトル『影武者』、今作は信玄の死後、影武者を務めた男の目から見た武田家滅亡、長篠の戦いを描いた時代劇スペクタクルである。
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 製作当時、黒澤監督は、後に次回作『乱』となる『リア王』の翻案の映画化に取り組んでいたが、映画会社は「スケールの大きすぎるクロサワの時代劇は当たらない」と考え、中々資金を出さなかった。そこで、監督は「時代劇でも客が入る映画を作ろう」と考え、作り始めたというのが今作のスタートだった。しかし、日本の映画会社はそれでも資金を出さず、何とあのFFコッポラとジョージ・ルーカスが20世紀フォックスに働きかけ、資金がそこから出ると分かると、ようやく東宝が資金を出すことを決めた。
 また、武田信玄役に決まっていた勝新太郎氏が、撮影当日、監督と大げんかをしたことから、降板するという大事件も。この事件がワイドショーを賑わせ、結果的に今作は当時、邦画史上最大の興行成績を記録する作品になった。

 今作の、映画的要素は、主に二つ。一つは、武田信玄が影武者であるということが、身内、また敵の間者(スパイ)にバレるか・バレないかのサスペンス。そして、もう一つは、自分を殺し「信玄」として生きなければならないという影武者のアイデンティティの消失である。
 特に二つ目に関しては描写に力が入る。影武者が見る、信玄の死体に追いかけられる悪夢の超現実的な映像美。側室との酒席の際、やや影武者の口調に疑問を持った側室に「私は影武者だ」と真実を言っても、その見た目のソックリっぷりに冗談だと思われ笑われてしまう。影武者が酒席を立つと、影武者の影、巨大な影法師が天井を覆う、影武者の信玄化に恐怖を感じる素晴らしいシーンだ。
 しかし、上述の二つは、やはり時代劇アクション大作としては地味すぎる、このあたりが、今作が黒澤時代劇の中で人気がない理由かと思う。個人的には、影武者がなぜ「影武者をしようと決意したのか」の動機不明、また、「父」:武田信玄の「影」に追われるという影武者と同じ葛藤を抱えた信玄の息子、武田勝頼の描写もライドしていかないのが悔やまれる。

 肝心のアクションシーン。やはり特筆すべきは、終盤の「長篠の戦い」のシーン。歴史の授業で習った「武田家の滅亡」「信長の鉄砲隊」を黒澤が映像に。これは盛り上がるぞ!と思いきや、この合戦シーンは悲惨、凄惨、徹底的に残酷な世界を見せられるのだ。
 突撃する武田騎馬隊。信長鉄砲隊の射撃。鳴り響く銃声。顔色を変える勝頼と影武者。これが何度も繰り返され、この間、鉄砲隊の射撃により騎馬隊がどうなったのかを見せない。終わってみると、戦場には武田軍、馬の死体の山、これを5分間延々と見せ続けられる。もはや映像の暴力と思える圧力。
 黒澤過去作に見られた人間賛歌、力強いヒューマニズムは、この死屍累々に完全に埋没。振り返ると、次回作『乱』で見られた、悲惨な世界における愚かで弱い人間を観るという監督の試みは、今作『影武者』から、あったということだ。しかし、今作だけ、時代劇アクション大作として見ていたら、あまりの悲惨さにナンナンジャコレ!と思うだろう。
 とても鮮烈で残酷な世界、これが黒澤明監督のライフワークとも言える次回作『乱』の肩慣らしだと思えば、多少は納得がいく。
 やや話がそれるが、今作はカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得、少し奇妙に思いこの年の審査委員長を見ると「カーク・ダグラス」の名前が。あれ、カーク・ダグラスと言えば、『赤ひげ』撮影時、セットに見学に来るほど黒澤監督のファンだよなァ……と、少しこのパルムドールには何かを察してしまう。
影は虚像に過ぎないがそこには確かに人間の輪郭が投影されており、一つ一つの影はその主である実体によってのみ、アイデンティティを与えられる。
つまり、影は人あっての影であり、実体(人)が失われれば、当然、影も消滅する。だが、信玄の影は、その山の如く動かざる精神が投影された、いわば魂を帯びたような影であり、主を亡くした影はその形に合同の者-まだ影を持たぬ実体-を探し出し、その器に己の魂を預ける事によって、初めは拒絶反応を示されながらも、その存在をこの世に留めた。(影が実体に乗り移った。)---影武者の誕生である。
そして、風、林、火はその土台であるはずの山を自ら手放し、破滅した。

といった感じに、メタフォリカルな解釈が見る側に求められていると思って鑑賞した方が(そもそも「影」自体が非常にメタフォリカルな素材なので)、ただの娯楽大作と据えて見るよりも、この映画の場合はずっと面白れーんじゃねと思いました。

「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」