優しいアロエ

ドッグヴィルの優しいアロエのレビュー・感想・評価

ドッグヴィル(2003年製作の映画)
4.0
〈人間の醜悪さを露わにするトリアーの実験室〉

 枠線だけで模った田舎町で人間の嫌〜な一面を白日の元に晒す、寓話的ロングコント。「視覚的な変化の乏しさ」「ナレーションに頼りすぎた語り口」と映画づくりの“いろは”を二段構えでガン無視しながら、きちんと3時間突っ走ってしまう、悔しいが飽きの来ない人間地獄である。

 茶一郎氏『ハウス・ジャック・ビルト』評(https://youtu.be/7ZlJL7itDOg)のご指摘通り、「ドグマ95」や細かく区切ったチャプターなど、ラース・フォン・トリアーはどこか“形式にこだわる”監督である。ともすれば本作の奇っ怪な町の外観は、彼の真骨頂と云えるかもしれない。

 『アルファヴィル』『ナッシュビル』そして本作『ドッグヴィル』と、街(町)そのものがテーマになったとき、映画は“ville”の名を冠す。チョークで引いたような白線で「町」の体面をギリギリつなぎとめているこのドッグヴィルは、ひとつの教室のようだ。運送業の男がひとり、あとは警察がたまに来るだけの、世間から隔絶された共同体でもある。

 そんなガラパゴス社会に、無垢そうな女グレースがやってくる。彼女の漂着がまず露わにするのは、私も学生時代にどうしても感じないわけにはいかなかった、人間という生き物の残念すぎる先天的オプション。すなわち、「浮いた存在がひとりいることで、それ以外の人間が偽りの結束感に安住できる」という紛れもない事実である。

 穿った解釈だが、トリアーが町を枠線と家具のみで模った狙いもここにあるはずで、町をひとつの「教室」に擬態させることで、美形だがあどけない転校生がクラスで虐められてしまうイメージを呼び起こすとともに、これこそ人類が幼い頃から備えている無自覚な本性なのだと提示しているのではないだろうか。

 加えて、トリアーはあえて本作を“アメリカの”町として描いた。そこには、「部外者を迎え入れる」ことへの痛烈な皮肉が込められている。部外者はただ甘受しているだけ、黙っているだけでは貪られる。案外そこに人種や容姿は関係ないのである。
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