黄色いレモン

ストレンジャー・ザン・パラダイスの黄色いレモンのレビュー・感想・評価

4.5
学生時代に衝撃を受けた映画というのは、大人になってからもずっと特別な存在であり続けるものだ。僕にとってジム・ジャームッシュはその最たる例である。

「ジャームッシュが好き」と一口に言っても、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『ブロークン・フラワーズ』『ゴースト・ドッグ』『コーヒー&シガレッツ』『パターソン』あたりで好みが分かれるもので、かく言う僕は初期作品に漂う心地良い気だるさがたまらなく好きだったりする。

ジャームッシュは作品の内容が語られることが極めて少ない珍しいタイプの監督だ。たしかに、一度でも彼の作品を観たことがあるならば「解釈することの野暮ったさ」を理解することだろう。それは煙草から燻る煙の形に意味を見出すようなものだ。けれども今回はあえてその煙の形に意味を与えてみようと思う。

主人公のウィリーは「ここではないどこか」にパラダイスを求めて、ブダペストからNY、クリーヴランドからフロリダへと次々と場所を変える。しかしクリーヴランドでエディが「おかしいな、遠くまで来たのに同じ場所に見える」とつぶやくように、そしてフロリダでエヴァが「どこかで見たような部屋ね」とつぶやくように、彼はどこまで行ってもパラダイスを見つけることができない。しかも最終的に彼は故郷のブダペストへ意図せず帰ることになってしまうのだからやりきれない。「自由は不自由の中にしか存在しない」という寺山修司の言葉が聞こえてくるかのようだ。

では「パラダイス」は一体どこにあるのか。そのアンサーこそが32年後に公開された『パターソン』なのではないかと僕は思う。主人公のパターソンは、繰り返す日々の中にきらめきを見つけ、そのきらめきを詩の言葉に変えてノートに書きつける。彼は決して移動しない。なぜなら彼は「ここにしかないどこか」にすでにパラダイスを見出しているからだ。

ここで、ようやく公開以来論争が続いている『ストレンジャー・ザン・パラダイス』というタイトルの意味があぶり出されてくる。この物語は「New World」「1 year later」「Paradise」の三部構成となっており、それぞれの章が「NY」「クリーヴランド」「フロリダ」という土地とリンクしている。そしてエディが「良い土地だ」と想像する魅力的なイメージとは裏腹に、いずれの土地でも代わり映えしない風景が彼らを待ち構えていた。彼らが期待していた「パラダイス」はどこにも存在しなかったのだ。

ここに「Stranger than Paradise(パラダイスよりストレンジャー)」というタイトルに込められた「Strange」のダブルミーニングが重ね合わされる。この物語を通して、ブダペスト出身のウィリーはいずれの土地においても「Stranger」であり、同時にどこまで行っても期待とはかけ離れた「Strange」な事実が彼を苛ませていた。つまりどれだけ場所を変えたところで、奇妙さが理想郷を覆い隠してしまうということなのだ。

友人の前では斜に構えた態度を取り続けるウィリーだが、クリーヴランドの叔母の家では終始素直な態度を取っているし、従妹であるエヴァと一緒にいるときは気持ちが安らいでいるように見える。彼はパラダイスを求めてアメリカに出てきたものの、結局故郷の匂いになぜだか心惹かれ、居心地の良さを見出してしまうのだ。しかし若いウィリーはその事実を受け入れることができず、ずっと「Strange」なモヤモヤを抱え続けているというわけなのだ。

しかし「運命は奇なり」、ラストシーンで彼は意図せず故郷への帰途に就くこととなる。もしかすると、それは彼が心の底で望んでいた「パラダイス」への帰還だったのかもしれない。

たぶん、30年以上の時が経ってもジャームッシュの言いたいことは変わらないのだと思う。変わったのはその表現方法であって、若い頃は斜に構えた逆説でしか表現し得なかったものが、成熟した今は真正面から描くことができるようになった。その過程にジャームッシュの変化を見つけることができるのではないだろうか。と今更ながらに思うのであった。
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