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11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たちのodyssのレビュー・感想・評価

2.0
【主役がミスキャスト】

1960年代後半の日本、左翼的な大衆運動が高揚する時代の中で、三島由紀夫が楯の会を結成し、やがてその中の限られたメンバーと共に自衛隊の基地で幹部を人質にして演説を行ったのち切腹して果てるまでを描いた映画です。

事実関係はかなりしっかり調べているようで、きちんと押さえていると言えるでしょう。だから、三島事件を手っ取り早く知りたい人には悪くない映画のように思えるかも知れない。でも、本当にそうなのかというと、疑問がある。

たしかに大筋では三島の行動や言説の要所をきっちり映像化しています。60年代後半に左翼運動が激化する中、アメリカに押し付けられた憲法が日本精神をダメにしてしまうという危機感を募らせ、自衛隊の出番を待ち望み、うまくすれば盾の会とともにクーデターが可能になるのではないかと考えていた三島。しかし、結局自衛隊の出番は来なかったし、また三島が交流していた一部の自衛隊員も、自衛隊によるクーデターがありえるとは思っていなかった。

象徴的なのは、自衛隊での訓練を受けた後三島がお礼に気心を通じ合わせた数人の自衛隊員と飲食をともにする場面です。そこで、自衛隊員の一人が、「軍によるクーデターは、開発途上国ならではの事態です。2・26が失敗したのは、日本があのときすでに先進国だったから」と言うと、三島は事実上反論できなくなる。

東大法学部を出たインテリである三島に、しかしそういうことが分かっていなかったはずはありません。彼が最後の行動に出た真因は、政治的な理由ではなく、あくまでロマン的な、芸術的な理由からだったと私は思っています。いや、政治的な動機はたぶん途中まではそれなりにあったのでしょう。しかし、自衛隊の出番がなくなったあと、政治は消えて芸術だけが残ったのではないか。

この映画の難点は、その辺の事情が、というか、三島事件への私の解釈はさておくとして、複雑に現実や芸術と関わっていた三島の姿が本当に映し出されているのか、という点です。

そこから見ると、井浦新の三島役はミスキャストとしか思われません。三島はたしかに東京の上流、もしくは中流上層家庭の出で、育ちの良さが一方にあった。しかし他方で晩年には狂気を思わせるところもあったし(でなければああいう最期を遂げるはずがありません)、それまで交際のあった友人たちと決別したりもしているのです。自分を隘路に追いつめていったのが晩年の三島だった。

さらに、三島はショウマンでもあった。映画の中に、ジャーナリストの徳岡孝夫が三島から手紙をもらう場面がありますが、あれは親しかったジャーナリスト2人にだけ特ダネをつかませる配慮であると同時に、自分が起こす事件をきちんとジャーナリストに報道してもらいたいというショウマン的な手配なのです。写真館で撮った写真を同封したのも、そういう意味からでしょう。

井浦新にそういう複雑な三島が出せていたとは思われません。井浦演じる三島は単に育ちの良い青年作家に過ぎない。狂気も、ショウマン的な芝居っ気も感じられない。三島がなぜああいう行動に出たのかが表情や体全体から漂ってこないため、観客には事件の本質が理解できないのです。本来、俳優とはそういうことを自分の顔や体によって分からせるべき存在であるはずなのに。

事実関係を細かく押さえることが真実の表現に必ずしもつながらないとするなら、この映画はまさにその典型と言わなくてはならないのです。残念ながら。
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