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11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たちの小のレビュー・感想・評価

3.7
東京・渋谷ユーロスペースで、現役日藝生の企画・運営による映画祭「映画と天皇」にて鑑賞。

1970年11月25日、東京・市谷駐屯地、自衛隊を合憲とする憲法改正のため自衛隊に決起を呼びかけたのち、割腹自殺を遂げた三島由紀夫。戦後民主主義によって「天皇を中心とした秩序(=国体)」が崩壊していくことを深く憂いた国際的に評価の高い作家のクーデターは、国内外に衝撃を与えた。本作はここに至るまでの三島と彼が創設した「楯の会」の若者たちの、実話に基づく物語。

三島由紀夫が偉大な作家であることはさすがに知っているし、三島が市谷駐屯地で演説する場面のテレビ映像によって「三島事件」についても何となく知っている。

ただ、三島の主張の是非を語るだけの知識と能力はないので、政治的なことは棚上げして感想を。本作を見て思ったことは三島は「三島事件」と呼ばれる行為を本当にやりたかったのだろうか、ということ。

自決することで国体を立て直すことができると思ったのだろうか。理想を実現するための手段である「行動」が目的に変わってしまったのではないのだろうか。国体という観念を理想に頂いたことで失望し、死に意味を見出したのではないのだろうか。国体にも死にも意味はないのに。

三島がまれに見る鋭敏な頭脳の持ち主であるという私の思い込み以外に根拠はないのだけれど、三島は国体や死に意味はないと思っていたのではないかと。しかし、三島の鋭敏な頭脳は非論理的なもの、不純なものを許さない。三島がスジを通そうとすればするほど、自決へと突き進んでいくのは必然のようにも思える。

ニーチェの言葉で言えば「力の意志」、三島の「自分にとって、よりよいものを目指したいという想い」のフィールドは文学から政治活動に変わり、私財をつぎ込んで結成した民兵組織「楯の会」が想いを表現する場となった。

「楯の会」のキーパーソンは日本学生同盟の持丸博と森田必勝。森田が熱血漢で行動派なのに対し、理論派の持丸が「楯の会」学生長として組織運営の中核を担っていたことで、組織のバランスが取れていた。

しかし、スジを通す三島によって「楯の会」の人間関係に板挟みとなった持丸は脱会せざるを得なくなり、代わりに学生長となった森田のもと、三島が思うところのより良きものを目指した「楯の会」は性格を変えていく。

持丸がいかに重要な存在で、三島が彼を必要としていたかについては、彼が退会を告げに三島と向き合うシーンを見ればよくわかる。純粋で真っすぐで熱い心を持つ森田が三島に死の意味を語るシーンを見ると三島が彼に心を動かされてしまうこともよくわかる。

かくして三島は覚悟を決めるしかなくなった。そんな三島を左翼の若松孝二監督は、幸せそうに描く。<監督は、普段演出はほとんどされないんですが、切腹のシーンだけは「出来ればでいいから、切腹しているときどこかで笑ってくれ。どこかで幸せだと思える笑顔を見せて欲しい」と言われたんです。>
(http://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2012-05/11.25.html)

ニーチェは「力の意志」を「芸術(自分にとって「よりよりもの」を目指し表現する行為)」に昇華せよという。

もちろん、死んだら芸術も終わりだし「楯の会」から中丸が脱会したことを嘆いた三島も自決は本望ではなかっただろう。トークショーの鈴木邦男さんの話によれば「中丸は生前、『自分が辞めなければ三島さんは死なずにすんだかもしれない』と自分を責めていた」そうだ。

それでも監督は「自決は三島最後の芸術」としたかったのではないか、三島の生き様を肯定したかったのではないか。三島以外の人にとっては、切なく虚しい出来事だったけれど、三島は自分自身を表現しきったのだ、と。

●物語(50%×3.5):1.75
・三島由紀夫の「実存」の物語として解釈したけれどどうかな。若松監督も大島監督と同じように行動する人が好きなのだろうと思った。物語は三島由紀夫、三島事件に関してある程度知らないと良く味わえない気がする。

●演技、演出(30%×4.0):1.20
・役者さんたちの演技は良かったのではないかと。切腹のシーンがどうだったかについては、監督の言葉を見た後知ったので…。

●画、音、音楽(20%×3.5):0.70
・色使いに時代の雰囲気が出ている気がした。
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