晴れない空の降らない雨

フィオナの海の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

フィオナの海(1994年製作の映画)
3.8
 セルキー民話に取材した児童小説が原作のアイルランド映画。母親をなくしたフィオナは、仕事で忙しい父親にあまり面倒をみてもらえないため、町を離れて暮らす祖父母のもとへ送られる。従兄弟の友達もいて、どことなく『ハイジ』っぽい雰囲気があるが、内容はだいぶ違う。彼女のちょっとした冒険を描く、ちょっとしたファンタジー。
 低予算で、特殊効果がまったく用いられていない。時々ドキュメンタリー・テイストになる撮影といい、民族楽器を用いた素朴なBGMといい、ハンドメイド感があふれており、それがゆったりしたテンポと自然賛美とともに童話的な雰囲気につながっている。冒頭で示される都会vs田舎の構図に始まり、全体をつうじて文明批判的なトーンがある(舞台は1950年頃)。この辺も『ハイジ』か。
 ハスケル・ウェクスラーが撮影監督で、彼のおかげでこの映画の魅力は飛躍的に高められている。風光明媚なロケーションや適役としか言いようがない金髪美少女フィオナがもつ魅力を、弱めの自然光のもとで存分に引き出し、さらに動物たちや炎といった自然界のエレメントに神秘的なニュアンスをもたせることにも成功している。廃墟と化した旧家を従兄弟とリフォームしていくシーンも、子どもが楽しんでいる雰囲気がよく出ている。
 
■移動の方向について
 よく聞く「一般的に左から右への移動はポジティブ」という映像のルールは、あまり真に受けないほうがよいと思っているが(富野由悠季は『映像の原則』で真逆の解説をしている)、本作の第2、3シークエンスはこのセオリーがよく当てはまるように思われる。
 オープニングショットは、黒い船舶がやってくるのを海面から捉えたもの。本作の主要舞台の1つとなる海を印象づけつつ、船が眼前に迫ってくることで脅かされている雰囲気を出し、また最後にカメラが沈むのもよい。そこから母親の葬式、暗い顔をしたフィオナ、心配そうに後ろから見つめる祖父。
 問題は次。父親を探すフィオナが蒸気たちこめる工場をうろつく、長めのショットで始まる。物・人・蒸気のせいで視界は不明瞭である。カメラはフィオナを前から捉えつつ後ずさるため、フィオナの進む先にあるものが観客には分からない。ここでは、フィオナは画面の右から左へと進んでいる。続くショットでも、父親が飲んだくれて寝落ちしたパブにフィオナが入る動きは右から左だ。ここが唯一の出番である父親はフィオナと会話するが、画面には左腕の一部しか映らない。フィオナが父親を見上げるとき、やはり左を向く。
 ところが、席の向かい側の女性が、フィオナを祖父母の暮らす田舎へ行かせることを提案するとき、フィオナは彼女を見上げて右向きになる。場面変わって船の上でも右向き。島に到着し、祖父の家に向かうときも右向きのショットが入る。彼女の動きから楽しみな気持ちが伝わってくる。祖父が出迎え、彼女はようやく初めての笑顔を見せる。ところが例外がある。船がアザラシの前を通り過ぎるときは左に進行している。このときフィオナはアザラシが自分を見つめているという印象を抱いており、そこから逃げるという意味をもたせたものと理解できる。