レインウォッチャー

危険なメソッドのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

危険なメソッド(2011年製作の映画)
4.0
心理学界の2大レジェンド、フロイトとユング。彼らの師弟関係とその後の決別はよく知られるところだけれど、そこにザビーナ・シュピールラインという女性が少なくない役割を果たしていたことは後年になるまでフォーカスされなかった。

彼女は2人の元患者であり、心理学の研究者。そして、ユングにとっては愛人でもあった。
この、一口に三角関係とも片付けられない重層的でまだらな奇縁を、フロイト=V・モーテンセン、ユング=M・ファスベンダー、シュピールライン=K・ナイトレイ、という美しくも「今にも何かやらかし顔」な面々が期待を裏切ることなく演じている。(※1)

まず、心理学周りについて少しでも学んだり齧ったりしたことのある人であれば、テキストあるいは再現Vとして超絶興味深い。作り手も思い入れある分野だったのであろう、エアプではない拘りを随所から掬い取れる。飛び交うワードや背景となる美術や衣装に至るまで「ソレナ‼︎」の連続だ。

しかし小難しい伝記映画に終わっていないのが今作の魅力で、3人を中心とした心理ドラマとして十二分に成立している。

本作に通底するキーワードとして、「アンビバレンス」(両面価値。相反する感情が同時に生じること)があると思う。これはフロイトが用いた代表的な概念であり、映画序盤でユングの台詞にも登場する。
3人の様々な局面においてこのアンビバレンスが機能し、「運命」としか呼びようのない力となって彼らの人生、ひいては歴史を紡いでいく。

それはとたとえばフロイト・ユング間の、師弟を越えた愛憎相半ばする疑似親子的な関係。
あるいはユング・シュピールライン間の、危うくインモラルでありながら、結果的にはシュピールラインの治癒と自立に繋がった関係。

そして、これらは引いた視点から見れば後年の学問や思想の発展の礎の一部であるとも言える。(※2)すべてに意味がある、とか言うと陳腐な表現かもしれないけれど、個人の生・愛・苦しみが大きな河の流れとなってわたしたちの現在へと続いているのだ、なんてことを思わせる。
(ユングとシュピールラインの逢瀬の舞台がたびたび河であることも、この印象を助けているだろうか。)

これはあながち過言ではない。裏付けるのがシュピールラインで、彼女の存在・功績は、彼女が患っていたヒステリーの扱い(※3)なども含めて、近~現代のフェミニズムの歩みとも関わりがある。
患者として初めてユングと対面したとき、(治療法の一環で)「後ろを振り返らないで」と言われたシュピールライン。彼女は、ラストシーンにおいてもやはり振り返らない。今作は誰よりも彼女のための映画で、道は続いているのだ。

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全編通して、19世紀の時代背景を映したクラシックな画面が美しい。
D・クローネンバーグ作品にしては地味(品がありすぎる?)な作りだけれど、軽妙でドライともいえる編集が飽きさせない。

長尺になりがちなイメージの歴史/伝記モノも、彼にかかれば胃もたれしない尺に収まっているのだから助かる。それでいて心理ドラマとしても過不足なく、奇抜・エログロ一辺倒ではない確かな匠の技を感じることができる一本だ。

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※1:実は、個人的ベストアクトはグロス博士を演じたヴァンサン・カッセル。
彼はシュピールラインとの関係に迷うユングを「そそのかす」役割なのだけれど、そのエロ魔人的な立ち位置が似合いすぎ。

興味深いのは、グロスが去るや否やユングがシュピールラインと一線を越えてしまうこと。誘惑する行為が逆に行動を抑制することもあるという、これもまたアンビバレンス。
なお、ここでわたしはラーメンズのコント『バースデー』の一節を思い出したのだけれど、これは誰が分かるねん、な話。

※2:フロイトやユングの理論は、後の批判も込みで、心理学の枠組みを超えて様々な分野に影響を与えている。まさに映画なんて、彼らの理論(特に夢や無意識、自己実現に関すること)に支えられる部分はどれほど大きいことか。

※3:当時、ヒステリーは女性だけの病気というのが定説だった。次第にその誤解が解かれ、女性に対する社会の抑圧が一因という見方も出てきたし、現代では性別に関係なく複合的な要因で起こるものとされている(転換性/解離性障害と呼ばれる)