ラウぺ

バッファロー’66のラウぺのレビュー・感想・評価

バッファロー’66(1998年製作の映画)
3.7
今回のリバイバル上映で初鑑賞。
なんかこう、おしゃれ映画の代名詞のごとく扱われて、紹介文などを見てもそこのところをやたら強調する空気に、どことなく漂う(ように見える)スノッブさが気になって、ちょっと敬遠していた映画。

もっとずっと昔の映画だったような気がしていましたが、製作は1998年。
1998年の映画というと、『アルマゲドン』『プライベートライアン』『シン・レッドライン』『エネミー・オブ・アメリカ』『RONIN』『海の上のピアニスト』・・・といったところで時代観が想像できると思いますが、上記の一連の映画と比較するまでもなく、この作品はこれが20年ちょっと前の映画とは思えないほど、古めかしいタッチなのに驚きます。
彩度を抑え、全体にアンダー気味な銀残しらしい映像表現に、アングルを固定し、抑揚を抑えた場面の連続など、あえてクラシックなスタイルで作られているのだと思います。
また、過去の場面がオーバーレイでカットインしてくる描写の多用が、どうにも古臭い印象を増幅しているように思います。
好みの問題は別として、この少々息苦しい映像表現は、この作品のテーマと重なり、アート的に相乗効果を上げているのだと思います。

映画は冒頭に子供の頃のビリー・ブラウンが愛犬と一緒に写っている写真から始まりますが、これが後でビリーの大きなトラウマのひとつであることが分かります。
刑務所を出所したビリーはたまたまトイレに利用したバレエ教室で実家に電話を掛け、話の成り行きで実際には居ない妻を連れていくことになってしまう。偶然居合わせたレイラを拉致して実家に連れていき、妻のふりをさせる。
実家での両親のデリカシーのない様子を見ていると、こんな家庭に育っては、ビリーがろくでなしになるのも仕方ない、と思わせるのですが、基本的にこの映画では登場人物の殆どがクズばかりで、その中にあってレイラだけが、素性の良いところを見せます。
とはいえ、いきなり現れた男に拉致され、その気になれば逃げ出せる機会は何度もあったのに、逃げ出そうとしないところや、次第にビリーに惹かれていく様子にいまひとつ説得力を感じないところが惜しいところ。
ビリーに至っては、完全なアホで、短気の上にメンタルも弱い正真正銘のクズ。
その友達のグーンもなんでビリーとつるんでいるのか分からないアホ。
アホにはアホの友達しかいない、ということかもしれませんが、夜中のデニーズで偶然居合わせる同級生の女もいけ好かないアバズレ。
なんでこの女がビリーのお気に入りなのか分からない。これまたクズ男にはクズ女がお気に入りということなのか。

まあとにかく、ビリーの実家での神経を逆なでする家族の会話をはじめとする不愉快描写で、すっかりダウナーな気分に支配されてしまうのですが、ビリーには自分が服役するきっかけとなったある男に復讐を誓い、そのためにバッファローに舞い戻ってきた。
ビリーにすっかり入れ込んでしまったレイラに対してもビリーがその気にならないのも、女性経験の不足という致命的な問題の他にその復讐のことが頭にあるらしいことが分かってくる。
レイラとビリーの間に流れるくっつきそうでくっつかない、こそばゆい感覚は、このアホ男の見せるはじめての人懐っこいと思わせる描写。
どこまで不器用な男なんだ、という思いと、復讐に向けて彼なりの決意が固まってくるところは、この男なりの人生の総括への決意が窺われて、ようやく主人公らしい感じがしてくるのです。

ラストに向けての展開はこの無思慮で無鉄砲な男なりに頭を使ったのちに出された結論が、それまでの鬱積したダウナーな気分から一気に解放に向かっていく高揚感に満ちて、思わず叫び出したいほどの衝動に駆られるのでした。

私はこの時代に初見という同時代性を体験できなかったという理由もあるために、“おしゃれ映画”といった印象は持ちませんでしたが、このどうしようもないアホなりのちょっとした成長らしきものを見届けることが出来て、この映画が時代を超越したところにある普遍性を持っていることがようやく体感できたのでした。
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