Ricola

この庭に死すのRicolaのレビュー・感想・評価

この庭に死す(1956年製作の映画)
3.6
カオスにカオスが重なったような状況。
とは言え、たっぷりとお膳立てをしたあとに文明社会への皮肉を突きつける、その姿勢はさすがの容赦のなさである。

鉱山近くの街を舞台に群像劇が前半には繰り広げられるが、後半では無人島サバイバルが描かれる。

暴力的で野蛮な男シャーク、神父様、耳が聞こえない少女マリアとその父でマルセイユでレストラン開業を夢見るカスタン、そしてカスタンが好意を寄せるジン…。
全くバラバラな彼らであったが、サバイバル生活を余儀なくされるのだ。


この作品において、まず火の明かりが印象的である。
彼らのサバイバル生活の前から、ろうそくなど照明としての火は何度も登場している。
暗い部屋の中での明かり、人が他の人を識別したり道を行くために火を使う。
そしてサバイバルが始まると、火は命綱のような存在へと変化する。
人間を温め、団結させる。しかしその光である火も、もちろんだが自然の摂理には抗うことができないのだ。

それからシャークという人物。
彼はすぐに手を出し、気に入らないと人を叩くし、支配しようとする。
彼の行き過ぎた行動に誰も口出しできないようだが、神父様だけは彼を少しは制止できるようだ。
しかし、サバイバル生活では彼のこの強気な態度を皆必要とするのだ。
雨の中濡れながら眠りにつかねばなならないシーンで、シャークの両膝にそれぞれ二人の女性が頭を置いて眠る。
マリアは父の近くで寝ていたが、途中で隣のシャークに身を委ねる。
こうやって、シャークは無人島において信頼を得ていくのだ。

「神は見放した」
「罪人もそうでない者も死ぬんだ」と、カスタンは言う。それに対して生きることを諦めないシャーク。彼は神がどうこうという理由で生きようとしているわけではない。
このように、宗教的要素はやはりこの作品でも散りばめられている。
サバイバル生活中に神父様はおもむろに聖書を開くが、ページを一枚破り、それをまた元に戻してしまう。
宗教や神様だって、こんな状況では無意味なのかもしれない、と。

やはり神の不在を突きつけてバカにするのかと思いきや、過酷な状況での「奇跡」と限界状態の人間を対峙させる。
その宗教的文脈でブニュエルが最終的に揶揄したかったのは、欲まみれの人間だったのだろう。

少々強引な展開があったのは否めないが、ブニュエルらしい宗教的皮肉と登場人物たちに嘲笑を浴びせるような視線はさすがだった。
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