人類ほかほか計画

影の列車の人類ほかほか計画のレビュー・感想・評価

影の列車(1997年製作の映画)
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①、1930年ごろのホームムービーのファウンドフッテージというていのモキュメンタリー映像。
②、現代の風景映像(街並みの映像から1匹の羊を追うようにファウンドフッテージの舞台である無人のお屋敷の映像へと繋がれていく。夜になり雨が降り、フィックスばかりのカメラワークにドリー等動きのあるものが加わる)。
③、①に対してより人意的な編集が加えられていく過程そのもののモキュメンタリーと呼べる映像。
④、③によって人物同士にメロドラマ的な関係性が発見(妄想?構築?)されたことから発展して、②のお屋敷の庭を使った①の撮影風景の妄想再現ドラマ的な映像。
⑤、②前半の街の風景の映像に似ているが通行人などの立ち位置や行き来のタイミングが完全に制御されている(と思わしき)フィクション的日常風景。

っていう大まかな流れの映画。
これらの映像に「幽霊映画」の意匠(影のモチーフや、オーバーラップ処理で人が消えてゆく映像や、窓ガラスの反射を利用した朧げな人物など)を散りばめて統一されたテーマ、トーンを作っている。

④で人物たちが現代のはっきりとしたカラー映像の中に立ち現れるところがいちばん盛り上がるけど、肝は③の編集映像で、アントニオーニ『欲望』や『ブレードランナー』での写真をどんどんどんどんありえないレベルに拡大していって真実を探っていって見えなかった部分まで見てしまうというシーンの動画フィルム版になっている。フィルムをカタカタ送りながら見えなかった部分を見つけていくという感覚。伊藤高志『SPACY』のコマ撮り映像によって奥へ奥へ入っていくトリップにも近いし、『サスペリア2』とか(あと児童書「ミルキー杉山のあなたも名探偵」シリーズとか)みたいな「真実は既に画面の中に映っていた(保存されていた)(あなたは既に見ていた)」という感覚にも似ている。
ここでこの映画が「視覚と記憶」という映像メディアの本質に最も接近している。

なのでこの映画で行われているのは『ブレードランナー』とか『サスペリア2』とかくらいのフィクション世界だし、相当無邪気な内容だと言えるのであるが、なんか高尚で崇高で深淵で厳格で難解で哲学的な大芸術みたいな顔をして振る舞ってる映画であるのは事実だと思う。でも、実際、映画の本質というのは相当に無邪気なのだ。って話。

初めて見た時は、思ってたより作り物っぽすぎたというか茶番っぽすぎたというか、「コンセプトは面白いけどこんなのただの勿体ぶった嘘じゃん」みたいな、期待してたのと違って残念だったという感想を抱いたのだけど、今見るとこれは冒頭の字幕による嘘説明さえなければよかったな、っていう感想になった。「このフッテージは1930年に撮られたもので〜」みたいなやつ。この映画の場合そういうの絶対いらない。何か情報を示すとしてもフッテージ内に署名とか日付とか入れたらいい。

ファウンドフッテージ映像はリュミエールというよりラルティーグの写真とかを思わせる。リュミエールだとしても『列車の到着』とか有名なのよりも赤ちゃんとか撮ったマイナーな家庭的なやつ。あとリュミエール100年記念みたいな企画の映画だけど1930年のフッテージという設定なのでリュミエールの時代よりもっと軽い手持ちカメラが使われていてシネマトグラフっぽさはぜんぜんない。リュミエールというより映像メディア発明100年記念みたいに捉えたほうがいい。