y

ソビブル、1943年10月14日午後4時のyのレビュー・感想・評価

-
ユダヤ人のイェルネルの語りの中で彼が収容所に辿り着くまでの間、画面に映されるのは彼が脱走を繰り返しながら収容所を点々とした道程である。撮影当時のポーランドの街並みや史跡の跡地に作られた博物館、彼がかつて居た収容所の跡地、山道を走る車からの風景などだ。その間もイェルネルの語りの中で彼が収容所から何度も脱走し、そのたびに命からがら何度も生き延びたというエピソードが語られるが、しかし彼本人の顔、彼がエピソードを語る様子はたまにしか映されない。

彼は半年で8か所もの収容所を渡り歩き、その果てにミンスクに辿り着く。あまりに痩せこけていた彼はゲットー運営を執り行っていたユダヤ人らであるユダヤ人評議会により、本来行くはずだったミンスクゲットーでは食い扶持を得るための労働ができないとして、赤軍に所属するユダヤ人兵捕虜用の収容所に送られる。ここで彼は比較的良好な医療や栄養状況、労働環境により、健康を取り戻す。しかしある日、彼は同じく収容されていたユダヤ人赤軍兵やミンスクゲットーのユダヤ人とともに、収容所行きの鉄道に載せられる。この間、画面には現代のミンスクの街並みや人々が映される。

ミンスクから鉄道で送り出されたのち(道中の駅でポーランド人職員に警告を受ける、「ソビブルでは人を焼いているぞ」と。しかしそれを真に受けるものはロクにいない、あまりに非人道的で、現実味がないからだ。)、鉄道が止まる。建物のある右手側にカメラがゆっくりとパンすると、語りの中でイェルネルの口からその名が出されると同時にカメラがソビブル駅の看板を映す。ソビブル絶滅収容所にたどり着くとそのうちしばらくは収容所跡の様子が映されるのだが、気が付いたころにはイェルネルの顔がずっと映されるようになる。

監督のランズマンがフランス語で尋ねる→ヘブライ語に通訳→ヘブライ語で語る→フランス語に通訳、という形式で証言が語られる本作では、ヘブライ語を解さない私(を含む大半の観客)はある程度の距離感をもって話を聞くことになる。(ポーランド語かと思ったら、まさかヘブライ語だったとは!)
製作言語での意図を再現してか、字幕はフランス語通訳のタイミングにつくのだが、これが映像内のどちらの言語も解さない日本語話者としては非常にじれったいし、身振り手振りをしながらの語りに対して言葉の情報がともなわないままで受け取ることになり、非常にもったいない感じがする。しかし、これはイェルネルによる蜂起についての語りと映画を観る観客との間に距離を取らせるという、なんらかの作為による選択なのかもしれない。

ソビブルでは赤軍兵らによって武装蜂起の計画が立てられ、それが鮮明に語られる。イェルネルは驚くべきことに殺したドイツ兵の名前や背格好、蜂起を実行する前後における行動の順序さえ事細かに覚えている。それまでは人殺しなどしたことがなかった(のちにパルチザンに身を投じる)というイェルネルは興奮をみせながら、感情的に、仕立て屋の小屋に潜伏し、時間に几帳面なドイツ人兵の頭を斧でもってカチ割った経験を生き生きと、誇らしく、喜ばしく達成感のあったこととして語るが、しかしインタビュワーによれば彼の顔は青いといわれ、そしてその問いかけを投げられた老人の顔には少し負の感情がみられる。

語る内容が蜂起の計画に入ってからは老人の顔ばかりが映る、動きのまるで少ない画面だが、なぜか不思議と飽きさせられない。俗っぽく言えば刺激的なトピックゆえか、はたまた言語がわからなくとも真に迫った語りの様子からその熱量が感じ取れる故か。

ナチスによるシステム的な殺戮に対するユダヤ人の蜂起は、ドイツ人の時間に几帳面な計画を逆手に取った非常に計画的なものであり、仮にも殺人の思い出を若き日の功績としてありありと語る様子も相まってどちらも非人間的かのように思える。本作では絶滅収容所内でのユダヤ人に対する虐待・虐殺は常識としてさらっと流されているからということもあるかもしれないが、ふと考ええてようやく彼は黙って殺されるか一矢報いてもしかしたら殺されるか選ぶしかないという極限状況に居たのだと気付く。自分の事を人間扱いしない相手の事を人間だと思えという方が無茶なのだ。ナチスが毒ガスにより殺されるユダヤ人の悲鳴をかき消すためにガチョウに鳴き声をあげさせていたという物凄くえげつないエピソードなど、本作でもしっかりとナチスの所業自体はイェルネルの口を通して語られているし、ソビブル収容所に送られたユダヤ人の人数も映画の最後に日付と元いた場所ごとに詳細に読み上げられる。送られた人数が端数までしっかりと記されている鉄道便の存在が、逆説的にほとんどの鉄道便では人数が丸められていることを表しているかのようで、考えるとさらに恐ろしい。ドイツ人があそこまで反-反ユダヤ的になるのもわかる。

「見易さ」でいえば、特にフランス語を解さない私の立場からすれば、ヘブライ語の語りにそのまま日本語字幕が乗っかる編集の方が見易いのだが、技術的・機材的な理由以前の問題としてそうしなかった意図も汲み取れる。私と彼との間に強制的にある程度の距離を作らなければ、これはある種の「逆・プロパガンダ」じみてしまう。ソビブルの蜂起が間違っていたと言うつもりは無いし、それ自体は立派な反乱だったと思うのだが、特にイスラエルが殺す側に回った現在では切り取り方によっては殺戮それ自体を肯定するように受け取られ得てしまうような危うさが感じられる。
イェルネルによって鮮明に語られる蜂起の様子は、観客の脳裏に革命の有り様を想像させる。仕立て屋の小屋に潜伏して、隠し持った斧によってドイツ兵に一矢報いる様子、そのドイツ兵の死体を急いでコートで隠して次のドイツ兵を迎え撃つ様子はさながら講談のように熱く勇ましく語られる。ハラハラドキドキしながら私も字幕を追ったが、スクリーンに映るこの老人は、かつて人を殺したことがあるのだ。弱冠16歳かそこらにしてだ。その後はパルチザンに身を投じたらしいがそれはそれとして。もっとも、これは21世紀産まれの感覚なのかもしれない。日本でも戦後すぐから20世紀まではおそらく戦場帰りの人が社会の中にもまだ沢山いたのだろう。なんと言うべきか、どう受け取るべきか、私にはわからない。

yさんの鑑賞した映画

y

y

もっと見る