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ベルリンのリュミエールのzhenli13のレビュー・感想・評価

ベルリンのリュミエール(1995年製作の映画)
3.7
エジソンのキネトスコープは独りの世界に没入する「のぞきからくり」方式であったのに対し、リュミエール兄弟のシネマトグラフもスクラダノウスキー兄弟のビオスコープも、大勢が一ヶ所に集って同じものを体験し共有する(ヴァルター・ベンヤミン述べるところの「集団知覚」)方式を採った。
エジソンとスクラダノウスキー兄弟の作品いずれも、仕込まれた芸を披露する「見世物」を映写素材とした。発想としてはこちらの方がスタンダードだったのかもしれない。それに対してリュミエール兄弟がグラン・カフェで最初に披露したのは、昼休みに工場の出口から吐き出される女性たちの姿とその光景であった。
リュミエール兄弟がまずこの『工場の出口』を披露したこと自体がものすごい革新的だったのではないかと、今日『ベルリンのリュミエール』を観て思った。
人様に見せるに足るものは、練習を重ねた、または笑わせる、もしくは容易に真似できないような特殊な「芸」であるべきだという不文律が、おそらくあったと思うのだ。それが映画という発明においては初手からひっくり返されたことになる。映画の始まりはドキュメンタリーであり、いわば周到に作り込まれた演出と芸から開放されたものであった。しかしドキュメンタリーはその始まりから再現という演出ありきであった。

1920年代のカメラで撮られたフィクションのスクラダノウスキーとその娘ルーシーが馬車でベルリンを巡る。そのベルリンは1995年のカメラで撮られた現代のベルリン。カットを割るという、これまた映画における大きな「発明」をして再現される幻想を大いに見せてくれる。泣いた。

製作に『ツバル』のヴァイト・ヘルマーの名がある。
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