同じ原作の、P·シュレイダーが『聖なる映画』として論じた3人を上回る·トーキー以降はスタイルの概念さえ消し去った、真に聖なる田坂(比肩するはドヴジェンコのみか)の広島被爆からの復帰第1作(公開後も撮影続行)と比べては可哀想だが、稲垣も充分に映画の申し子なのだ。ワルぶったあらくれの世界と見えて、ことごとく、明るい東宝健全世界に鞍替えしてく、いい加減さ·腰砕け、それを非難する気もしないのだ。表面的に唸らせる、映画だけに許された醍醐味·その手腕に限ると、サイレント期はともかく腰の定まったトーキー以降はケレンを嫌いブレッソンすら無化してしまう田坂の清廉を、何となくワクワクの面では少しは引き離してて面白い。
三村や伊丹の名作脚本を得ての、映画的表現を極めた『海を渡~』『無法松~』『手をつ~』のモノクロ·スタンダード期に比べて、いくらアカデミー賞やベネチアを制したとはいえ、カラー(途中からスコープ)期は通俗的と云われるが、そんなこたぁない。批評家当ての名誉なんて端からか捨ててるだけだ。遺作だって比べても、同じ変わり者ばかりを集めた題材で、田坂の名作にそんなに劣るわけでもない。
本作も、昔ながらの採石場での、労使の問題、現場と社上層、飯場や近くの飯屋=女斡旋の女たち、の軋轢を描いてるが、暗い筈の話が、設定ベース自体がころころ変わるイージーさなのでか、じつに心地よく伸びやか。棒頭の下·ライフル携帯要所見張りらの目光り脱出不可能の現場で、「トビッチョ」と呼ばれる脱走をあちこちでやって来て生き甲斐としてる主人公。追分の唄と爆発物処理名人の相方がいる。学ありながら敢えて入って、「恥部たるタコ部屋の潰し模索」と「森林切り出し路実現への貢献」の両方を味わってる男。主人公は、幾つあるかわからない戦中の不発弾の存在分かったのと、飯場で威勢よく博打名人の女に狂う位に惹かれ、トビッチョを出来ずにいる。彼女の事は、下へ暴力·上へ無理押し、何でも力ずく·被害お構い無しの棒頭がつけ狙ってる。主人公は、女らを守る為に、棒頭と格闘し、女らとの関係をでっち上げてくも、豪快強気に見えてじつは東宝調おもんばかりの好漢。女も出所夫の為に資金貯めてる背景あり、飯場強気は「演技」で正体分かると言葉使いもコロッと女らしく変わる。不発弾抱えて、他現場の他社に負けぬ工事早期完成の親方に、過大な取分要求して、消されかける棒頭。「飯場内でケリ。娑婆に出れば(クリア)」と女と夫を逃がして自分もトビッチョの後、それを知り、工事貫徹のため、不発弾処理·棒頭救出の為もどってくる主人公。成就後も、飯屋の女に「腰落ち着け」応じかけて、やはり「狭すぎ」ると船へ。女も明るく、「サヨーナラー、一生懸命ホレてるよ」と。
何ともスターとキャラ、暗さ排除、の安定に急カーブしてく展開。でも安心して、タッチの豪腕·妙手に浸れる。合成·スケール·力感万全の東宝特撮以上に、ロー·仰角多用地力、疾走感のスピード·迫力、回るめ他移動の格と確かさ、エキストラ量も含め·縦図や大Lの伸びやか·広大な力とバランス、ごく短いカット挿入の気付かれぬも意識下へ確かな効果。俗に留まるなら、これが映画だ。