けんたろう

もののけ姫のけんたろうのレビュー・感想・評価

もののけ姫(1997年製作の映画)
5.0
眼前の銀幕に煌々と輝く、赤や緑の生命の灯火。其の奥から響き渡る、深大なる劇伴の調べ。嗚呼。此れを幸せと言わずして、何んと言う。視覚と聴覚と感情とに訴えかけるそれら映画芸術は、右手に持った私の手巾を使い物にならぬ只の布切れへと変貌せしむ。
其の物々しくて残酷なる幕開け、旅立ちの後に見られる森のさゞ波、川のせゝらぎ、雨の一滴いってきの美しき総べては、そよ風のひと吹きでさえ感極まる私の心を二たび強く動かす。
劇中に幾度となく轟く力強き一つひとつの詞 (ことば) は、単純にして深遠なる名文句の相を見せ、濡れきった此の目や鼻を三たび湿らせる。

「生きろ。そなたは美しい。」

時代や社会から隅へ隅へと追いやられた者達に依る生を賭けた戦いは、其処に居るのが生粋の悪者ではなく、懸命に生きる弱者や彼等を養う者であるが故に哀しい。
其の自然と文明との対立を曇りなき眼で見るはずであった若き理想家は、何時の間にか、社会の荒浪の中で生きてきた現実主義者達と真っ向から対立する訳だが、其の対立というのも誠に哀しい。彼は干渉しさえしなければ、此れ以上傷つくことはないからだ。

「黙れ、小僧!」
「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな!」

だが其れでも彼は絵空事に過ぎないのかもしれない其の理想を引っ提げて、傷つきに行くのだ。何んと天晴な青年だろうか。

「森と人とが争わずに済む道はないのか!」

自然が死ねば無論人間も死ぬが、然し自然が生くる所に──文明社会に住まう──人間は生きられない。此の何んとも言えぬ矛盾のようなものが更に若者を追い詰める。共存とは果たして夢想に過ぎないのだろうか。考えた彼は言う。

「分からない。だが共に生きることはできる。」

嗚呼、そうか。理想とは決して棄ててはいけぬものなのか。たとえ其れが何れだけ馬鹿々々しく、たとえ其れが何れだけ現実に則していないのだとしても。

然うして彼が与えられたものは、生きる権利ではなく生きる義務であった。
成るほど死ぬために生く、或いは生くるために死の呪いを受くるという余まりにも不条理なものであるが、とかく彼は人間が犯した罪と、其の恩恵に与る己れの贖いきれぬ原罪とを背負って生きていかなければならなくなった。
即ち彼に取って(いや若しかすると私に取ってなのかもしれないが)、此れからを生きることは権利ではなく義務と成ったのだ。

ときに、無情な運命を宿された或る人は言う。

「生きることはまことに苦しく辛い…それでも人を呪い、世を呪い、まだ生きたいと願う。」

人間の深き業。本人は意識上の欲望を話している積もりだが、実際其れは無意識下に於ける本能に違いあるまい。詰まるところ、人間は生きなくてはいけないのだ。何んなに苦しくて仕様が無い場面でも、生きなければいけないのだ。生きるんだ。

嗚呼斯うして文字を打つ間にも、熱いものが込み上げてきてしまう。

神は死んだ。人間が殺した。日本人が殺した。其の祟りは痣と成って我々の遺伝子に刻み込み、骨を断ち、肉を腐らせ、終いには死へと追いやることだろう。
然し其の痣は斯う語りかける。

「生きろ。」

神は確かに死んだ。だが森は死なゝい。
宮崎駿が風の谷の物語(映画)によって野放しにした命題に、自ら終止符を打った渾身の作。
其の余まりにも力強く、又たか弱く、然うして目も眩むほど聡明な物語に、私は──!


①2020年6月29日 TC宇都宮1
②2020年7月6日 TC宇都宮9
③2020年7月13日 gdcs 5 BESTIA
④2020年7月22日 TC宇都宮9
⑤2020年7月31日 シネマシティ aスタ
⑥令和六年一月廿一日 吉祥寺プラザ