miduki

もののけ姫のmidukiのネタバレレビュー・内容・結末

もののけ姫(1997年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

小さい頃、見ようと思っていたけどおどろおどろしい描写に、難しい言葉や人間模様に、恐ろしい顔のシシガミさまがトラウマになってちゃんと見られないまま大人になってしまった。
金曜ロードショーでちゃんと見ることに。

○全編を通して
アシタカは17歳と若い青年にも関わらず、何もなければ集落の長になるはずだった人間ということで、基本的な人格はスタートの時点で出来上がっている。ゆえに若い主人公にしては珍しく、あまり成長しないと感じた。あまり成長しない、というのは成長する必要がない、すなわち物語において神格性を内包する人物だからだと解釈している。逆に主人公キキの成長譚である『魔女の宅急便』では、キキには神格性はない。EDのやさしさに包まれたならの歌い出しは「小さい頃は神様がいて」である。裏を返せば今は神格性はない、ということの表れ。後述するが、もののけ姫は仮のタイトルの段階ではアシタカ聶記(せっき:耳から耳へ伝えられ続けられる物語という意味の造語)となる予定だったということで、この物語は実はただのアシタカが主人公の話ではなく、実は神話的なものなのだということで解釈した。そして、皆が「じきアザに殺される身だ」とアシタカに言うけれど、平たく言えば神様なんだから、生命が脅かされる状況は幾度とあれど、少なくとも作中途中退場する、アザが原因で死ぬということが起こるはずがないんだなぁ〜()

○カヤの石の小刀の件は女としては持っててほしいと思うけど、現代の価値観では測れない愛の形(暗喩)だと思う。(要約。以下つぶやき)

○アシタカが村を追い出された時にカヤ(許嫁)からもらった小刀をサンにあげるところ、うわって思うのは思う。でも村を出て行くのを追わないと決めたからには彼女には覚悟があると思う。それでいいと思う。女的には持っててほしいと思う気持ちもゼロではないんだけどさ。

○でも、どれだけの思いで小刀を渡してくれたか、アシタカはアシタカなりに重く受け止めてると思う。物は物であって象徴に過ぎない、物に乗せられた気持ちの方が真に大切。完全に質が同じというわけではないと思うけれど、あれはやっぱりアシタカのサンを思う気持ちであることには相違ない。

○そしてこれが、出会ったときのサンと、洞穴で眠るシーン・山犬の背にのり、イノシシたちと山を駆けるシーンのサンでは顔、特に眼(初対面のときは攻撃性が剥き出し、干し肉を噛みちぎり咀嚼してから与えるときのサンの眼は釣り目気味で攻撃性が少し残る。アシタカの回復以降は慈しみを持った眼差しをアシタカや森の生き物たちに向けるようになった。)が違う理由なんだと思う。

○(もっと言えば処女性の喪失、サンだけじゃなく、もちろんアシタカに小刀を渡したカヤもナゴの守と相対したときと、夜出立するアシタカを見送るときとで顔が違うのも同じ理由なのだと解釈した。)
アシタカが乙事主のタタリ神に呑まれていくサンを助けようとするときに1番に目に入ったのが小刀なのも、洞穴の上のモロと会話をするシーンの、モロのセリフの意味もしっくりくる。

○アシタカがサンを背負ってタタラ場を出るシーン、すごくシシガミさまと似ている。シシガミさまが歩いたところには草木が芽吹き一瞬にして枯れるけど、アシタカが歩いた後は血だまりができる。そして時間が経てばその血だまりも乾き、土に吸われ赤黒い痕跡が残る。命を奪うも生かすもシシガミ様次第というのが森の生き物たちの知っているルールだけど、人間の生きる場所のシシガミ様がアシタカなんだろうな。

○シシガミさまが怖いと感じるのは人間の目をしていて、見られていると強く感じるからなのだと思う。でも、もしかしたらそれは人間にだけ見えている姿なのかもしれないと思う。それぞれの動物が畏怖の念を抱くような容貌が見えているのではないかと思う。ポッターのまね妖怪ボガートのような。タタラ場を襲撃したサンとエボシの競り合いを止めに入ったアシタカのセリフに「この娘にも、そなたの中にも夜叉がいる。」というものがある。これは、アシタカにも同義であり、それぞれ自分の中にシシガミがいる=それぞれ別の姿をしている、と言うことに対する答えになっている。シシガミは命そのもの。

○タタラ場のお姉様方の歌声が好き。

○サンとアシタカの瞳が似ていると思ったけど、これは二人が"曇りなき眼(まなこ)"の持ち主だということなのだろうな。目の見えない乙事主がタタリ神となった良い対比となっている。

○森での山犬モロの一族(=エミシの一族の老巫女ヒイ様と同等の役割を果たす)と乙事主(村の男)率いるイノシシたちの集まりが、冒頭の占いの場と対になっている。乙事主の言う事が村の男と同じだと思って聞いていたら声も同じ人では?と感じ、調べたら、乙事主の声優と同じく森繁さんという方が担当されているようだ。ビンゴ。

○森が豊かな証拠としてコダマがいて、タタラ場も豊かな村の証拠として女が元気(共にアシタカ談)。どちらも良いところを見てきた彼が、双方の住処が豊かであり、争わずに生きる方法はないのかと模索し奔走する動機がよくわかる。

○サンは2度死に瀕している。1度目は生後間もなくして山犬に生贄として捧げられたとき。森とともに生きて森とともに死ぬから命など惜しくない、という気概で生きてきた。モロはアシタカにサンは「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘だ。」と語っている。アシタカにそなたは美しいと言われて動揺するようすから、サンはきっとモロから醜い娘だと言われて育てられたのだろう。モロに育てられたとはいっても、言葉にはないけれどサンにとって生きることはただつらいだけだったのだと思う。自分を捨て、住処を脅かす人間は憎悪の対象でありながら、人間であるという出自からは逃れられず、育ててくれた山犬と行動を共にしていても、猩々からは「山犬の姫、平気 人間だから。」と言われる。美しいと言ってくれたアシタカと日々を過ごすことで真に心が蘇ったのだ。2度目は乙事主のタタリに呑まれたとき。1度目は生まれたばかりで自我が形成されていない。自分が当時どうおもったか、ということではなく、モロに当時の状況を聞かされて(=モロというフィルターを通して)自分の生い立ちについて解釈をしているため、自分の一大事でありながら彼女は一歩退いて解釈をしていたため、絶命するということへの恐怖が希薄だった。しかし、2度目は自我があり、何よりアシタカによる救済があったためにそれまで欠落・麻痺していた死への恐怖がはっきりとにじみ出ている。人を恨み呪うことは、肉体は生きながらえても精神は死ぬことと同義であることが現れている。そして、その2度目の窮地もまた、乙事主のタタリに呑まれ行くところを1度目と同様にモロが物理的に取り出し救ってくれた。そして、精神は人間なんか嫌いだと小刀を突きつけられながらも決して攻撃せず謝罪の言葉を述べて抱きとめてくれたアシタカがまた救ってくれた。

○物語の最後、アシタカの呪いは消えても痣は消せない。これを戒め、ととるのは極めて宗教的で人間的な解釈だと思う。一度起こしたことは不可逆であり、以前と全く同じ状態へと戻すことはできないが、回復させる術はある、というのが現象として見たときの答えになるのではないかと考える。

○エボシさまは最後、モロに腕をちぎられるけれど、それでもアシタカに助けられたのは良かった。エボシさまが隔離されてきた人たち(ハンセン病患者)に対してやってきたことだもんね。子供の頃はなんで首を取るんだろう、悪い人だなとおもっていたけれど、大人になってみてみたら、彼女が慕われる理由がすごくわかる。

○猩々たちに「その人間(アシタカ)をよこせ、人間を食べて人間を超える力を得る」、といわれた際のサンの答えが「いけない、人間を食べても人間の力は得られない。あなたたちの血が汚れるだけだ。猩々じゃなくなっちゃう!」だったのは、そのままシシガミ殺しに対する答えとなりうる。シシガミを殺しても、自然を掌握する力は得られないし、病に伏せるものたちの病は治らない。シシガミ殺しに向かうために、イノシシの皮を被り乙事主のあとを追ってきた唐傘師匠連のことを「生き物でも人間でもないもの連れてきた。」と猩々が言う。かつて人間だったが、血が汚れて人間でなくなったものなのだ。

○隔離されて包帯をぐるぐる巻きにされているハンセン病の患者さんの長の言葉がとても胸に残っている。生きることはまことに苦しくつらい。世を呪い 人を呪い それでも生きたい。どうか愚かなわしに免じて。

○シュナの旅を読みたい。

○文明と自然の共存、呪い、恨み、怒り、人間の尊厳

○「我が名はアシタカ!東の果てよりこの地へ来た!そなたたちはシシガミの森に住むと聞く古い神か?」東の果て、から連想したのは『エデンの東』兄弟を殺し、楽園(エデン)を追われたカインは東の流刑地へ送られる。
アシタカは神(私個人の解釈)で、東の果てのエミシの集落から西へやってきた。呪いを受けた彼は集落を出て行くことになるため、将来の約束されたエミシの集落というエデンを追われてるのではないかと感じるが、エボシのタタラ場ではよそでは蔑まれる存在のハンセン病患者や穢れと疎まれる女性たちがエボシからは仕事を与えられ、言葉に耳を傾けてもらえるなど、人として扱われている。エミシと比べたらタタラ場のほうが楽園というに相応しい場所ではないだろうか?と思う。
開拓の精神が声高に叫ばれる時勢ではあったけれどコダマの住まう豊かな森も近くにあった。その森を取りまとめるモロの一族の姫たるサンは人間で、彼女は人間社会から捨てられ、猩々から蔑まれるけれど、モロからは生き物としての尊厳を認められ、育てられてきている。森も楽園なのである。
クライマックスでは森もタタラ場も一度壊滅的な状態にはなるものの、シシガミを鎮めることができた。彼はタタラ場と森とがあらたな形での共存へと歩み始めた真の楽園にたどり着いたのではないだろうか。一見すると混沌、タタリが目に付きやすいが、美しいものはそこにある。そう考えると、岩井俊二監督作品の『スワロウテイル』も本質的にはもののけ姫と同じ部分があると思う。ジコ坊が「この世はタタリそのもの。」と世相を評するように、一見すると世は混沌の最中にあり、タタリ・穢れが蔓延しているが、今いる場所が実は美しく、楽園である、ということを教えてくれる。

○アシタカ聶記(せっき) の 聶記 は人々の耳から耳へと語り継がれていく物語 という意味の造語らしいのだけど、それってつまりは口伝ではと思ったけど、収まりも悪いし野暮ね。聶記の方がしっくりくる。

○本来、もののけ姫も、アシタカ聶記というタイトルになる予定だったらしい。実際に鑑賞を終えると、体を表している名だと感じるのは後者だと思うけれど、興収にも関わりうるタイトルが難しい響きのことばより、馴染みのある言葉で作られた前者の方が、興味をそそられるかもしれないし、何より東の果ての故郷から西へ赴いたアシタカの旅、人生において内的に大きなターニングポイントを迎えることとなったのは、人間でありながら自らを山犬と自認し、森で生きるサンとの出会い。シシガミとの邂逅ではなくサンとの出会いが転換点。私はアシタカとシシガミは実は表裏一体である、という解釈をしているため、アシタカとシシガミの邂逅とはアシタカが己のの内面と改めてはっきりと対峙したことの表現にすぎず、無意識とは言えずっとそばにあったと思うので、アシタカとサンとの出会いほど大きく人生を変えたとは考えられなかった。また、シシガミは畏怖の対象であり、自分自身の内面であるため、限りなく近くにあるにも関わらず、おいそれと触れることは叶わない。しかしながら、サンは完全に他者として、アシタカとの存在の境界がはっきり分離していて、触れ合うことができる。曇りなきまなこを持つ”人間”であり、愛の対象である彼女の存在が言うまでもなく大きく身近だ。そう考えてもののけ姫というタイトルに思いを馳せている。

○「生きろ。そなたは美しい。」は作中の名言だけど、何度も練り直されて最終的についたコピーが「生きろ。」なのは、理由(そなたは美しい)を映画で見てほしいからだというところで、腑に落ちた。このコピーでよかったと思った。美しいもの(アシタカの出立の朝、月明かりに照らされた夜、小刀、サン、そして芽吹きの緑)を描くために、醜い争いや赤く血なまぐさくドロドロとしたものが描かれている。生きることはまことに苦しくつらい、というのは、意識的か無意識的かを問わず、後者に目を向けているからなのであって、美しいものは必ずそこに存在していて、気がつけたなら道はひらけ、月並みだけど生きる活力となりうるだろう。アシタカはどこへ行ってもアウトサイダーで、社会に馴染めずどこか疎外感を感じる現代人は多く、彼に感情移入しやすい。そんな人たちに向けて映画を見て何らかの命の答えを見つけてほしい、生きてほしいというメッセージだと思う。様々なコピーを見てきたけれど、これほど短く、鑑賞者の数に等しく無限に近い解釈を内包し、対象物を正確にあらわしたコピーは他にないんじゃないか、というぐらい鑑賞後に気に入った。

○米良美一さんの歌う、もののけ姫 は吟遊詩人の歌のようで、伝説性を強めているなと感じる。

またちゃんと見て書く。
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