なべ

もののけ姫のなべのレビュー・感想・評価

もののけ姫(1997年製作の映画)
4.0
 アングストのつまらなさにやり場のない怒りをおぼえ、それを打ち消すためにもののけ姫を観に行った。

 子供が小さい頃、散々お世話になった作品のひとつ。かなりの再生回数なはずだ。子供らはすっかり成人してるが、「もののけ姫を観てきたよ」というと、「えっ、いいなぁー!」と羨ましがられるほど、我が家では名作の誉高いアニメ。個人的にもジブリ作品の頂点だと思っていたのだが、「子供と一緒に観る」ところから離れて、劇場でちゃんと観ると、今までとは随分見え方が違ってた。
 確かにアニメ映画としての見せ方はナウシカより大きくアップグレードしているが、思想やテーマの掘り下げに関しては後退(いや、失敗か)していると言わざるを得ない。宮崎駿の迷いや逡巡がアシタカの言動にそのままリンクしていて、なんとも締まりのない主人公になっているのだ。
 「曇りなき眼で見極める」…これがクセモノ。自らタタリ神の呪いを受けながら、この設定のせいでアシタカは、いつも中途半端。あれだけの聡明さと度胸と技量を備えていながら、彼は何も断じない。立ち振る舞いがいちいちかっこいいのでついつい騙されがちだが、彼は何も決めないのだ。見るだけ。自らがやがて祟り神になるとわかっていながら、狼狽えもせず、また立場を明確にもすることもない。
 たたら場に行けば、エボシのリーダーシップや覚悟を知って判断を保留し、もののけ姫に会えば「そなたは美しい」と腑抜けたことを言う。瀕死なのに。アシタカがチカラを発揮するのは主に戦闘でのみ。それも祟りを上乗せしたチートパワーでだ。
 問題はこれだけではない。ジブリファンでない人は気づいているかもしれないが、実はもののけ姫はいなくても問題ないという衝撃の事実。エボシとモロとシシ神がいれば、話は成立するのだ(アシタカは語り部としていていい)。いや、もっと物語の強度が上がり、スッキリわかりやすくなるはず。それほどサンは役として余分で軽いのだ。深みがないと言い換えてもいい。じゃあなぜサンはいるのか。宮崎駿が少女が好きだからだ。タイトルになってるから主役に見えるけど「当初のタイトルは「アシタカせっ記」だった)、彼女の思うこと為すことはすべて他の者に代替可能。「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ哀れで醜い娘」という台詞で、かろうじて存在意義は保たれているが、それが物語に生かされることはない。彼女の置かれた特殊な立場で、人間ともののけの間で揺れることがないなんてあり得るだろうか?
 ね、これ、言われるまで気づかなかったでしょ? それはジブリの魔法が効いてるから。千と千尋の神隠しはもっと顕著。おもしろいのに、後で振り返ると一体なんの話だったんだ?とストーリーから得られるテーマや教訓がよくわからないのだ(もちろん無理やり構造化して解釈することは可能だが、あちこちで齟齬が出る)。
 おそらく宮崎駿の中にある言葉にならない情念のようなものが、類稀なる才能とずば抜けた演出力で巧妙に構築されているのだろうが、彼自身、自分のなかにあるものを捉えきれてなくて、数々の矛盾や齟齬が起きているような気がする。力技で打ち消してはいるものの、冷静になってみるとしっくりこない。ジブリを嫌いな人は自分がハマれない理由が分からなくて、悶々としてたりするのだが、それ、他の人より物語をちゃんと見通せているからですよ!

 とまあ、ここまでdisってるような書きっぷりだが、ダイナミックな演出には大いに感動したと告白しておく。いつもの飛翔感を封印して地べたで展開する時代劇には終始ワクワクしたし、エボシに至っては、クシャナの到達すべき理想のリーダーだと確信した(もっと端的に言えば惚れた!)。地走りに唆され祟り神に成り果てる乙事主のシーンでは戦慄が走った。エボシの神殺しシーンは恐ろしくも美しく、真の主役の大罪に打ち震えた。

 アシタカは何も決めないと書いたが、唯一決めたことがある。それはシシガミに首を返すこと。悔しいけどぼくはそれだけでこの物語に満足してしまう。
 その後飛散したデイダラボッチによって痣が消えたのを見て「シシ神は私に生きろと言ってくれた」という勘違いはこの際許そうじゃないか。ベン・ハーでイエスの死が罪人を癒したごとく、あれは膨大な生命エネルギーの飛散によって、呪いや病が癒されたのであって、自分が許されたと解釈するのは身勝手過ぎるのだが、お前、今まで何も決めてこなかったのに、最後に都合のいい解釈を決めてんじゃねーよ!というツッコミは控えておこう。
 とまあ、いろいろ瑕疵のある物語なのだが、演出がすご過ぎてどうでもよくなってしまう。残念ながら宮崎駿マジックはまだ効いているのだ。