カラン

愛に関する短いフィルムのカランのレビュー・感想・評価

愛に関する短いフィルム(1988年製作の映画)
5.0

キェシロフスキ②

キシェロフスキ監督は超弩級の方だということがわかりました。本作『愛に関する短いフィルム』は恋愛光学の話しです。

本作以前にも、恋愛光学に関してたくさん作品が作られてきました。例えばピエール・クロソフスキー(画家のバルテュスの兄)の『ディアーナの水浴』では絶対に見てはいけない女神の水浴を盗み見るために森に忍んだ男は鹿に変えられて、猟犬に食いちぎられて肉片に細分化されていくのですが、同時に、女神の裸を盗み見るという至高の享楽をえるのです。見てはいけないものを見るのはオルフェウスの神話以来、喪失を意味しましたね。ジャン・コクトーがこのテーマで映画を作っていたと思います。この種の「眼差しの中の愛」をテーマ化した映画で私が好きなのは、ジャック・オディアールの『リードマイリップス』です。スュルメレブルという原題は「お口で」くらいの意味ですから、見ることとエロスが絡みつきます。

さて、目が物を見ることができるのは、光の反射を視神経が受容するからです。したがって、光の反射が起こらないゼロ距離では視覚は機能しません。ここに視覚に対する不信が芽生えるのです。視覚は距離がなければ物を知ることができない。離れたところから物の表面をなぞることしかできない視覚は、例えば、触覚ほどには感動を伝えることはできない (moved / touched / impressedといった感動を表す表現は触覚系の語彙である。日本語でも「琴線に、ふれ、る」などという) と感じているわけです。つまり、視覚は本質的でないというわけです。だから、この映画の窃視も、罪や若気の至りだとは言わないとしても、本質的な愛であるとは誰も思わないのです。そういうわけで、私たちはこの映画の女と同様に「愛してるから」を繰り返す青年の想いを、「ほろ苦い」気持ちにならずには受け入れられず、この映画をせいぜい青春童貞アートムービーと言ってみる以外に受容の術を知らないことになる。そして取り逃がしてしまう、この愛の喜びを。本質的な愛の喜びを!

そういう私たちの無理解さは、アイスクリームデートの後で青年が初めて女の部屋に招かれたシークエンスによく表れています。

窃視をして何を見たのか?全て、を。全て?なぜ見たのか?自分でやるためか?はじめは。でも、そのうちやめた。では、見ることに何の意味があるのか?何も。意味など、何も、ない。女には恋愛光学が分からない。ないとはどういうことか?何もないのに、なぜ見るのか?女の部屋でのシークエンスを追跡しましょう。

シャワーを浴びた女が、ソファに座った19才の青年の前に、ブラウスだけの姿で座る。女というものの性について、そして自分の現在の愛液の状態について教える。女は自分のももに青年の手を導く。青年が女のももの奥に手を滑らせると、青年は震え、それから悲痛な声を出す。

「いった? これが世間でいう愛の正体よ。」と女。やはり、女には眼差しの喜びが分からない。だから青年は駆けだし、事件が起きる。


この後の悲劇と奇跡については、映画をぜひとも見てください。




一つだけ付け足しておきます。最後のシークエンスで、青年と暮らしている老婆が、青年に《触れ》ようとする女を制止します。この制止は、もちろん老婆が「孤独」で、嫉妬から他の女に触れて欲しくないと思ったのだと解釈すべきではありません。今述べてきた恋愛光学に基づいて解釈すべきです。愛は純粋に見なければならない。触れるべきなにかではない。

キシェロフスキ監督は、間違いない、光学の達人である。映画監督としてこれほどの達人を『インランドエンパイア』を撮ったデビッド・リンチ以外に、私は残念ながら知らない。
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