拘泥

山の焚火の拘泥のレビュー・感想・評価

山の焚火(1985年製作の映画)
3.6
『山の焚火』というタイトルですが、観ればわかるように山の焚火が現れるシーンを考えるとそのままこの映画のタイトルは『SEX』なわけでキモすぎます。
隔絶した山中で、賢くも因習的に山に閉じ込められる姉と、聾唖の弟と、弟の聾唖の発覚から明るさを失った信仰深き母と、凝り固まった価値観で反知性主義の正に山の男としてある父と。
大抵の映画が物語るために必要なのは、登場人物の計画や目的という時限装置なわけだけど、こんなお膳立てを前に「一体いつ近親相姦は行われてしまうのだろうかという不安」が当然時限装置として迫ってくるわけで。なんか文字に起こすと偏執狂患者の戯言みてえだな。
田中登『マル秘色情めす市場』をはじめとした姉と不具の弟との姦淫というのがこの時限装置を簡単に察せさせた大きな要因だったけど、この「不具の弟と姉の近親相姦」というモチーフは何か有名なものなのかしら?

繰り返す虫眼鏡と双眼鏡は、固まった近すぎる父の視点と遠き天を見る母の信仰との対比に重なり、近視かつ遠視だからなかなかどうして何ひとつ見得やしないとも言えるし、矯正すればその両端は見えるけど結局間は見えねえな。

んでその虫眼鏡と双眼鏡を同時に扱うのは弟の"坊や"なんだけど、とにかくこいつがキモすぎる。本当にキモい。こいつだけでこの映画があんま好きじゃなくなるぐらいに気持ち悪すぎる。こいつをぶっ殺してくれればまだよかったんだけど。不具のクソガキがそれを言い訳みたいにキモキモしく生きて泣いたりして気持ち悪すぎてしょうがない。マジでぶん殴りたくなる。コレはいけない。そりゃ母も明るさを放棄するわ。しかしそれは不具のためじゃねえぞ。ただこの人間がキモすぎるからだ。ガキは本質的に割とキモい。それは忘れないぞ俺は。子供は好きさ。
何故あだ名(実際には氏族の呼び名)で呼ぶのって会話と、坊やってあだ名かねってことは見逃せない。

坊やは声変わりと共に石割りの仕事を任されます。
旧約聖書において石工だのということは重要な現れたをするんだろうってことは知ってるけど大して詳しくない。聖書において「石を立てる」ということとその意味の考察を上げている方がググればjstageで出てくんだけど、大体神の権限の証拠、或いは記念なんだそう。
そして先程述べたタイトルである山の焚火と共に成る『SEX』は近親相姦において、おそらくその度に、坊やは石を立てまくるんですね。それが大人の通過儀礼かつ神の権限として祈念されるってお前、いや〜本当に気持ち悪いですねコイツは。死んでくれ普通に。
拘泥

拘泥