ニトー

黒い十人の女のニトーのネタバレレビュー・内容・結末

黒い十人の女(1961年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

市川崑の中では今のところ一番好きかもしれんです。

まずキャストが若い。中村玉緒とか、重力の呪いたるや末恐ろしいと思うくらい若々しい。まあ笑った時の表情は現在の玉緒の面影が見えのでシワの印象が強いということなのでしょうが。あとは伊丹十三がちょい役で出ていたりクレージーキャッツがちょろっと出ていたり。
しかしまあ、なんといっても岸恵子と山本富士子でしょう。「黒い十人の女」と言いつつ実のところはこの二人と宮城まり子の三人がほとんどスポットライトを占有しているわけなのですが。他にはまあ中村玉緒と岸田今日子はそこそこ出番もありますが残りはほとんど出番という出番もないですね。「スプリット」における人格のアレみたいなもんだと考えれば。というかオープニングで顔出ししてる人だけで基本的には事足りるわけですな、この話は。
オープニングといえば、船越英二(面倒なので役者の名前で統一)の妻として山本富士子は登場=最初の所有者であり、最終的に彼を物にするのが岸恵子なわけですが、オープニングのそれぞれの演者のバストアップの際に山本富士子は証明ゼロの影の状態から顔を現すのに対して岸惠子はその逆パターンなのですよね。dawnとduskというか。
岸惠子のメイクが露骨で目尻の部分を伸ばしていかにも悪女っぽい感じに仕上げているのが何とも言えない。
細かい演出だと、十人が全員集まって船越英二を殺そうとするときの山本富士子の行動とか注目していると、ほかの女の下駄を一度は整えようとしてすぐにぐちゃぐちゃにするというのが、もはや取り繕う必要がなくなったことを示していたり、あるいは初登場の時点でBLEACHのフルブリング編の表紙もかくやといった陰影の使い方で明らかに山本富士子の悪女な部分を暗示していたりしていて面白い。白黒映画だから余計に影の演出が際立つのですね。

そこへいくと、やはり宮城まり子だけは衣装の白さとか死してなお船越を思っていたり(ていうか思っているがゆえに自害するんだけど)純粋さというか船越への不義なれど清廉潔白実な思いだったということがお話上だけでなく視覚的にわかるようになっているんですね、多分。実のところ、宮城まり子だけが彼に結婚を迫るという、一見すると誰よりもエゴをむきだしているように思える行動も、むしろ彼を思っているからこそであるということがわかるわけだし。

そういう細かい部分はともかく女同士のパワーゲームが観ていて単純に楽しいんですよね、これ。いろんな女に手を出していて、そのことにどの女も呆れてはいるんだけれどそれでも彼を独占したいという気持ちもあり、それによって生じる女たちの駆け引きがこの映画の妙趣。

これはやっぱり女だからこそ成立しうる映画だと思う。もしも男女の性別を入れ替えても、こうはなるまいというのがわかる。というのは、わざわざ生物学的な説を援用するまでもなくメスとオスではその嫉妬の仕方に差があって、男は肉体的な不義に対して女性は精神的な不義への嫉妬心に駆られることが多いわけで、そうなると男の場合はやはりフィジカルなゲームが展開されるかねないし、そもそも十人が集うというようにはならない。もちろん、これは船越の人物像をそのままに性別だけ入れ替えたらという仮定に基づくわけですが、その仮定を立てるとどうしても船越女を巡って血なまぐさい争いになる方が自然ではあるわけです。ものすごくタイムリーなことについ先日ツルゲーネフの「はつ恋」を読み終わったんですが、ちょうど男女の立場が逆になっている感じですが、ここまで露骨な駆け引きが展開されないんですよね。ジャンルが違うので何とも言えないんですけど。

意識的に惑わす女でもない限り、男が結託することはないでしょうし。

なにげに社会構造や男女の仕事観だったりについて、いいセリフが出てきたりしますしね。


ともかく楽しい映画です。絵ヅラ的に派手というわけでもなく、感情を大きく揺さぶられるというわけでもなく、ただ純粋に構造的・物語的に楽しい映画でここまで楽しかったのは結構久しぶりかも。
ニトー

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